子供のころ、私の回りの大人たちは陶磁器をすべて"セトモノ"と言った。だから私は食器はすべて瀬戸で作られると思っていた。それはだいたい正解で、だいたい大間違いだった。セトモノは芸術品というよりも庶民向けの道具として作られ、主に関東から東へ広まったそうだ。だから関東の庶民にとって、身の回りにある陶器はセトモノだったはずだ。しかし、こどもの頃の私はそれを瀬戸内海の瀬戸だと思っていた。
小学校の日本地理は、まず海と山を教わる。地元でもない遠い地名は出てこない。瀬戸内海は教わっても、愛知県瀬戸市は教わらない。陶磁器に唐津や有田、信楽、益子などの産地があることを後に知り、セトモノの産地が愛知県の瀬戸ではないか、と思った。そのきっかけは時刻表である。名古屋周辺の路線図に尾張瀬戸という地名を見つけて、瀬戸と名のつく場所は瀬戸内海だけではないと知った。ほかの地域に瀬戸と名の付く駅はなかった。焼き物は土から作るから、海ではなく、瀬戸という内陸の町で作られたほうが納得できた。その予想は正しかった。
愛知環状鉄道瀬戸市駅 右奥が名鉄新瀬戸駅。
瀬戸物の由来は、瀬戸市に流れる瀬戸川だという。良質の土が取れることから焼き物が盛んになり、江戸時代は尾張藩が取り仕切って成長した。それが江戸に広まったのだろう。重くてかさばる瀬戸物は、瀬戸川から矢田川へ船で運ばれ、海伝いに江戸に運ばれた。やがて瀬戸線が開通し、水運は鉄道輸送に切り替えられた。
その瀬戸市にはもうひとつ鉄道路線がある。愛知環状鉄道だ。名鉄瀬戸線は名古屋へ向かう。それに対して愛知環状鉄道は十字に交差して、北は中央本線の高蔵寺、南は東海道本線の岡崎に達する。開業は瀬戸線のずっと後で、1988年である。瀬戸物の輸送とは関係なく、むしろ通勤通学路線として完成した。ただし、愛知環状鉄道の前身となる国鉄岡多線は、トヨタの自動車を出荷するために作られたという。
2両編成の大型車。
岡多線は岡崎と多治見を結ぶ計画だった。しかし新豊田まで到達したところで延伸は中断する。自動車の鉄道輸送が終わり、国鉄全体の赤字が嵩んだためだ。岡多線は廃止対象路線となった。それを地元自治体が引き受け、建設が中断されていた高蔵寺までの路線を完成させた。愛知環状鉄道は環状の路線ではないけれど、地元市民の足だけではなく、愛知県の環状路線網を築いて貢献するという自負が込められている。東海道線、愛知環状鉄道、中央本線、東海交通事業城北線で環状の路線網に見立てている。もっとも環状に走る列車は無く、地元の利用者が多い。
名鉄瀬戸線で新瀬戸に戻り、愛知環状鉄道に乗り換える。愛知環状鉄道の瀬戸市駅は高架で、ホームは10両編成の列車に対応した立派なつくりだ。ただし、やってくる列車は2両編成である。電車はJR東海の近郊型に似て、立派な体格をしている。銀色で、緑色の柄が左右非対称に入る。なかなかオシャレな奴だ。車内は冷房が効いており涼しい。
線路は高規格。
地元市民のための愛知環状鉄道が、全国的に知られ活躍した時期がある。2005年の愛知万博だ。鉄道利用者の推奨ルートとして、名古屋からJRのエキスポシャトルが八草駅まで乗り入れた。エキスポシャトルは最大10両編成で、一時間あたり3往復も設定された。愛知環状鉄道は大勢の客を受け入れるために、複線化とホームの延伸工事を行った。瀬戸市駅の長いホームはその名残である。しかし無用の長物となったわけではなく、エキスポが終わっても通勤通学時間帯の直通運転は継続している。愛知環状鉄道の沿線はトヨタ関係の企業や学校も多く、定期券利用者の需要は大きいと聞く。経営も第三セクター鉄道の中では良いほうらしい。国鉄から見放された岡多線の面目躍如といったところか。
私もエキスポシャトルで万博を訪れた。だから愛知環状鉄道のうち、高蔵寺から八草までは乗車済みだ。瀬戸市駅も通っているけれど、なにしろあのときは大混雑で、景色を眺めるゆとりは無かった。今日の2両編成の電車も座席がすべて埋まるほどお客が乗っているけれど、あの時とは大違いだ。今日はゆったりと景色を眺められる。新豊田までは新線として建設された区間で、高架と築堤で見晴らしが良い。ときどき台地の下を長いトンネルで抜けるところも、新線ならではの工法である。
拡張余地がある新豊田駅。
新豊田は豊田市の中心だ。近くに名鉄三河線の豊田市駅がある。トヨタ自動車があるから豊田市である。そうはいっても普通の街である。駅前にはオフィスビルとショッピングセンターがあり、ビジネスホテル風の建物がある。駅から離れると戸建て住宅が並んでいる。町並みが途切れると畑が広がって、トヨタはどうしたと拍子抜けする。その期待通りの車窓はふたつ先の三河豊田駅周辺だった。車窓左手に広大な工場が現れた。これがトヨタ本社工場である。駅は島式ホームがひとつだけ。しかし拡幅の用地は確保されている。トヨタ自動車は自動車会社ながら鉄道通勤を奨励しているらしく、それに応える形で新豊田と三河豊田の間にシャトル列車を運行している。三河豊田で働き、新豊田周辺に住む。あるいは名鉄沿線に住む、というライフスタイルのようだ。
新豊田から先は旧岡多線だ。だからきっと線形も施設も古くさいと思っていた。しかし実際はこちらも幹線級の線路だ。なるべく直線で勾配はゆるく、カーブは緩やかになっている。周辺の道路とも立体交差が多い。岡多線の開通が東海道新幹線以後の1970年と比較的新しく、用途が自動車輸送という重量級かつ長編成になると見込んだからであろう。一部の区間は単線であるものの、複線用の用地は確保されている。いつでも複線化して、増え続ける自動車輸送と通勤輸送に対応できるというわけだ。しかし、残念ながら自動車輸送の役は解かれてしまった。
北野桝塚駅手前の車庫。
北野桝塚駅付近には三菱自動車の工場もある。おそらく岡多線の輸送量に期待した立地だろう。矢作川を越えると岡崎の生活圏になる。矢作川が工業地帯と都市との境界線になっている。岡崎は東海道の宿場町として歴史のある町だ。八丁味噌の産地でもあり、徳川家康の出身地でもある。だから独自の発展をしてきたと思われるけれど、今では工場関係者の生活の地でもある。岡崎と北野桝塚の間も平日は区間運転が設定されている。単線と少ない車両をなんとかやりくりして、効率の良い運行を工夫している。北野桝塚の車庫には私が乗っている電車と同じ型がいくつか停まっていた。時刻は17時。夕刻のラッシュがもうすぐ始まる。
もし、当時の政府と国鉄が予定どおり岡多線を廃止していたら、トヨタをはじめとする工場群の通勤事情は大変なことになっていた。自動車の渋滞、広大かつ立体的な駐車場、その入出庫時間のロスは勤務時間にも影響したはずだ。そして、あの膨大な万博輸送も不可能だった。トヨタは貨物輸送に関して鉄道輸送を再評価しており、地方の工場に陸路と船便で送っていた部品を鉄道の専用貨物列車に振り替えた。完成品自動車の輸送も復活させるという噂もあるらしい。
矢作川を渡れば岡崎市。
廃止対象だった岡多線が見直され、ここまで重要視されるとは、国鉄時代に誰が予想できただろうか。環境問題から鉄道輸送が見直されつつあるいま、鉄道貨物を復活させようにも線路がなくなった地域も多い。今となっては廃止しなければ良かった路線も多いはずだ。温暖化や環境問題など思いも寄らぬ時代だった。もしあの時、未来を見通せる役人や政治家がいたら、と思う。しかしそれは、今から20年後を正確に予測することと同じくらい難しいことだ。
住宅街の電線が五線紙のように並ぶ。そんな車窓に夕陽が沈もうとしていた。岡崎着17時51分。そこから東海道線に乗り換えると、23時38分に品川に着く。夏の日没まで名古屋にいて、その日のうちに東京に帰れるとは、鈍行列車もなかなかのスピードである。
夕陽で終わる車窓。
(注)列車の時刻は乗車当時(2008年9月)のダイヤです。
第286回からの行程図
286koutei.jpg
2008年9月7-9日の新規乗車線区
JR: 19.3Km
私鉄:302.6Km
累計乗車線区(達成率)
JR(JNR):17593.9Km (78.03%)
私鉄: 5212.2Km (75.58%)
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