吉田駅に16時30分着。乗り継ぎの新潟行きは16時55分発である。都会なら25分間の待ち合わせ時間を持て余しそうだが、ここでは短すぎず、長すぎず、ちょうどいい。便所でゆっくり用を足せる。売店のパンで軽食を済ませることもできる。列車の中で座っていた人も、居眠りしていた人も、やっぱり駅で休むのである。煙草に火をつけるオジサンたちの、あの嬉しそうな表情はどうだろう。煙草を吸えない私にも喜びが伝わってくる。乗り換えなしの直通列車が一番便利とは言えないのだ。
吉田駅。
私はふと思い立って、吉田駅の駅舎や街並みの写真を撮ってみた。知人の編集者の吉田氏への土産のつもりだ。案内看板の写真も撮った。吉田郵便局、吉田図書館、吉田病院など、ランドマークのほとんどに吉田が付いている。商店街にカメラを向ければ「吉田まつり」のノボリと横断幕が掲げられている。いったいどんな祭りなんだろうか。吉田氏はシャレのわかる人だから、きっと喜んでくれるだろう。
吉田発新潟行きの電車は銀色の新型だった。座席はロングシートで、ここから先は通勤路線ですよと宣言された気がする。ロングシートというだけで旅らしくないと嫌う人もいるけれど、空いていればこれほど眺望の良い車両は無い。ロングシートの中央に座り、向かいの窓を眺めれば、連なった窓がひとつの大きなスクリーンに見えてくる。そこに映し出される風景は、米どころ新潟の水田が連なった緑の大地だ。向こうに見える山は弥彦山だろうか。低いけれど存在感がある。山という漢字の原型がこれだといわれれば、そうかもしれないと思わせる形だ。
ここからは通勤電車。
列車は相変わらず水耕地帯を走っている。列車は小さな川や用水路をいくつも超える。この平野において、網の目のように張り巡らされた水路が稲作の発展に寄与したのだろう。新潟に近づくにつれて建物が増えてくる。新川を渡って内野駅より北側は住宅地になった。地図を見る限り、海に近い区間だが、日本海は見渡せそうにない。
列車はひとつひとつの駅に停まり、お客さんを拾っていく。新潟のふたつ手前の関屋駅を出ると、それまで直線的に進んできた線路は緩やかなS字カーブを描く。気に留めなければ判らないけれど、このS字カーブは線路を付け替えた形跡である。越後線の前身となった越後鉄道は、国鉄の新潟駅に接続するつもりだった。しかし、信濃川を渡る鉄橋の建設費をどうしても調達できなかった。そこでやむを得ず、関谷からほぼ直進させたところに白山駅を作ったという。そこは新潟駅から離れているとはいえ、現在の新潟市役所に近い場所ではないだろうか。町の中心に達したからまずは良し。国鉄との接続は次の目標だったかもしれない。
連続窓のパノラマ。
ところでWikipediaの越後線の項を読むと興味深いことが書かれている。経営難に苦しむ越後鉄道は、政治工作によって国有化を申請したが、なかなか実現しなかった。つまり、越後鉄道の創業者たちは越後鉄道を国に売り抜けようとしたらしい。しかしすでに信越本線がある上に、赤字が歴然とした路線を国が進んで買うわけが無かった。それが突如、越後鉄道ほか4社の鉄道の買収法案が提出され国会で議決される。1927年のことだ。これには鉄道の免許甲府や国有化についての贈収賄疑惑があって、越後鉄道の社長や鉄道官僚が逮捕された。文部大臣にも収賄容疑がかけられるという政界スキャンダルに発展した。
この事件を理解するには、日本の鉄道網の発達に関する経緯を知っておく必要がある。明治の鉄道開業以降、政府は鉄道網の整備を急ごうとした。鉄道は産業政策や軍事機能の必要からすべて国有であるべしという考え方だった。しかし、当時の政府には日本中の鉄道網を計画し建設するだけの資金が無かった。そこで、鉄道建設を希望する地域や民間資本に対し、将来は国有鉄道に編入するという約束で鉄道の建設免許を与えた。この制度の下で日本鉄道は現在の東北本線を開業させ、甲武鉄道は現在の中央本線を開業させた。日本の鉄道網は急速に発達した。
この方式は、私には理解しにくいことだった。将来国有化される鉄道を建設することに、ビジネスとしてメリットがあるのだろうか。建設費を捻出し、営業しながらその借金を返していく。本来なら、建設費を償却した段階からやっと利益が出始める。そのときに国有化されてはウマミが無い。そこまでして鉄道が必要だった、地域のために尽力した企業家がいたのかと、私は当時の鉄道への期待の大きさに感動していた。
国鉄が建設した鉄橋。
しかし、どうも越後鉄道のスキャンダルを見る限り、これらの流れにはカラクリがあるように思えてきた。資本を投じて鉄道を建設し、それが最終的に国に丸ごと買い取る。極端な話だが、線路だけ敷いて列車を運行せず、ひたすら買取を待ってもいい。つまり、投資した金額よりも国に高く買ってもらえたら、資本家にとっては丸儲けの話なのである。鉄道に対するロマンや地域への貢献など二の次というわけだ。もちろん、鉄道事業に情熱を傾けた人々もいただろう。その他方で、狡猾なペテン師もどきの事業家も少なくなかったに違いない。
越後線は目論見どおり国鉄に買収された。その後、信越本線から支線が延びて信濃川を渡り、関屋駅に到達した。白山駅は信越線支線側に移設され、これで現在の越後線の形になった。今や越後線はJR東日本の路線であり、新潟都市圏の輸送の一翼を担う。信越本線と言う動脈に支障があった時の迂回路という価値もある。どんな経緯で敷かれたとしても、その路線を必要として利用する人がいる限り、路線には罪はない。そろそろ遺恨を水に流して複線化してあげたい路線である。
新潟駅に進入。
17時49分に新潟に着いた。この時間になると普通列車の乗継では東京に帰れない。新幹線なら今日中に帰れるけれど、資金が乏しいから青春18きっぷを選んだわけで、ここで新幹線に乗っては意味が無い。私は帰りも青春18きっぷで帰ることにし、23時40分発の新宿行き「ムーンライトえちご」の指定席券を購入した。出発までの約6時間はネットカフェで過ごそうと、バスに乗って市街を南下し、弁天橋停留所で降りた。そこには大きな湖があった。湖ではなく潟だそうだ。鳥屋野潟という。
新潟の地名の由来は、信濃川河口部にあった新潟という潟湖という説がある。新潟にはこのような潟湖が多かったが、ほとんどが干拓され、宅地や水田になり、やがて街に呑み込まれた。鳥屋野潟はこの地域に残された貴重な潟湖のひとつである。私は弁天橋の欄干に佇み、夕暮れの鳥屋野潟をぼんやりと眺めた。ようやく涼しい風が吹き、夏の熱気を冷ましていく。鳥屋野潟の水面は穏やかで、付近の光と影を映す。やがて光が少しずつ引いていき、水面も空も同じ漆黒の闇になった。
鳥屋野潟。
第252回~の行程図
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2008年7月20-21日の新規乗車線区
JR:140.0Km
私鉄: 0.0Km
累計乗車線区(達成率)
JR(JNR):17,454.4Km (77.32%)
私鉄: 4,833.1Km (70.67%)
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