九州鉄道記念館を隅々まで見学して門司港駅に戻り、真っ赤な顔の813電車で鹿児島本線を下る。この電車は扉の裏側も座席も赤い素材を使っている。九州の電車はいろいろな形があっておもしろい。ずっと乗っていたいけれど、6つ目の戸畑で降りた。筑豊本線に乗るためだ。鹿児島本線と筑豊本線は、さらに6つ先の折尾駅で交差している。しかし、筑豊本線の起点の若松駅は戸畑駅のほうが近い。その距離は約2キロだ。ただし、徒歩では行けない。両駅の間には洞海湾の入江が横たわっている。渡る方法はふたつ。バスで若戸大橋を行くか、船で海を渡るかである。空中の橋の景色も良さそうだが、今回は船で渡ろう。

鹿児島本線荒尾行きで戸畑へ。

車内も真っ赤な813系電車。
戸畑の駅舎は南側を向いていた。洞海湾は北側だ。どこかに線路の向こうへ行く通路があるはずだが見つけられない。改札口を出ると駅弁屋があったので、おばちゃんに聞いてみた。「そこに階段があるよ」と指差されたほうを振り返ると、たしかに地下道の入り口がある。よく見渡せば解るところだ。そそっかしいことである。お礼の意味もこめて駅弁を買う。折尾駅名物の『かしわめし』は戸畑駅まで出張販売をしているらしい。25年前に食べたときと同じ掛け紙が懐かしい。そういえばあの時、折尾駅で立ち食いそばを食べていたせいで列車に乗り遅れた。高校生時代、今よりもっと食い意地が勝つ年代だった。
キャスターつきのバッグを引いて一本道を歩いていく。渡船場までは約400メートルで、正面に真っ赤な若戸大橋が見えている。この道は広く商店街ふうではあるけれど、人通りは少なく静かだ。戸畑から若松方面に向かう人は、ほぼ例外なくバスを選ぶらしい。戸畑駅から徒歩8分で渡船の待合所に着く。10名ほどのお客がいて、私が着いたあとからも背広姿の男性が二人やってきた。市民の足としてきちんと機能しているようだ。

若戸渡船の乗船場は大橋のたもと。
自動券売機で切符を買う。片道100円は安いというべきか、距離相応と言うべきか。自動券売機では11枚綴りの回数券も購入できる。通勤定期は3600円だが、通学定期券は630円で、これは破格といっていい。船には自転車も持ちこめるらしく、片道切符だと自転車料金は大人と同じ100円。自転車定期券という設定もある。通勤自転車定期券は1500円とかなりの値引きである。通学自転車定期券はさらに半額の750円。この大幅な値引きのおかげで、通勤定期は自転車料金のほうが安いけれど、通学定期券は自転車料金のほうが高いことになっている。妙な値付けだが、通学定期券を大幅に割り引いたためだろう。
改札を通ろうとしたらまだだと言われた制される。外から船が見えたけれど、それは朝の増便で使う船で、私たちが乗る便ではないらしい。しばらくすると船が着いたか、改札口を人々が出てくる。その流れが途切れたところで乗船だ。桟橋の正面に停泊中の船は『くき丸』という。2000年製。19トン。定員110名。長さ16メートル。幅4メートル。小さな遊覧船といった形で、路線バスと同等の輸送能力といえる。最高速度は約9ノット。だいたい時速16キロメートルである。速いとはいえないが、もっと高速な船を使っても、加速が終わらぬうちに対岸に到着してしまうに違いない。

バスのように小さな客船。
船内は三つの区画に分かれていた。ひとつは乗船口から入ったところで、小さなベンチがあるだけの風除け室。自転車を積むために簡素な空間になっている。わたしはそこのベンチに座った。テレビがあって、高校野球をやっていた。船首側の部屋はおそらく座席が並んでいるだろう。船尾はオープンデッキである。乗客がすべて乗り込むと、船はガリガリと大きなエンジン音を上げた。細かい振動が伝わってくる。しかし大きな揺れは感じなかった。好天の上に、もともとここは入り江だから波も小さい。短時間ながら快適な船旅だ。頭上に真っ赤な若戸大橋が架かっている。洞海湾を渡る橋だが、海の上から見上げると、まるで青空に架かっているようだ。
対岸まではたったの3分である。若松渡船場も若戸大橋のほぼ真下にある。しかしここからJR若松駅まではやや離れていて、若戸航路の案内では徒歩20分だという。バスに乗ってもいいくらいの距離である。乗船場の周辺を見物していたら、ちょうど路線バスがやってきて、並んでいた人を乗せるとすぐに発車してしまった。次のバスを待つくらいならと、私は駅に向かって歩き始めた。海沿いに広めの歩道が整備されていて歩きやすい。ただし灼熱の太陽は恨めしく、風もほとんどない。半袖シャツの内側を流れていく汗が下半身に貯まっていく。鞄の中の弁当が傷まないか心配になってくる。

水上から若戸大橋を望む。
それでも歴史を感じさせる建物を見つけたり、海上保安庁の船の停泊所を眺めると時間を忘れた。このあたりの入り江は古くから若松港として整備され、日本最大の石炭積み出し港として栄えたという。入り江であるが、大型船がすれ違うには充分な幅がある。この入り江の奥には八幡製鉄所がある。日本の近代工業の幕開けとして、八幡製鉄所は小学校の教科書にも出てくる。製鉄所の立地は筑豊の石炭を見込んだものであったけれど、良質で安価な石炭を輸入する時代になっても、やはりこの港は重要だ。後の工業地帯の誘致にも有利に働いているようで、現在も多くの工場が洞海湾沿いに点在している。

若松付近もレトロな建物が多い。

巡視船を間近に眺める。
遊歩道のある道が国道と合流して広くなり、ほぼ直角に右にカーブすると広場がある。その向こうに若松駅があった。「やっと駅が見えた」と安堵して、やや早足になったけれど、左の視界に何か気になるものがある。蒸気機関車が鎮座していた。なぜ駅から少しはなれたところにあるのか。確かめずにはいられない。私は重たくなってきた足をすりながら近づいた。1917年製の9600形であった。銘板には、大正6年から昭和48年まで、55年間にわたって筑豊本線で活躍したと書いてある。走行距離は月まで3往復するほどだという。

旧操車場跡に保存されている機関車。
機関車の奥には別の記念碑があり、そこには「若松駅操車場跡」と書いてあった。碑文には明治24年の若松駅開業と同時に石炭車入替のための操車場があったとある。それまで遠賀川の小船で運ばれた石炭は、筑豊本線の開業によって鉄道輸送に切り替えられた。全盛期の1954(昭和29)年には洞海湾に沿って3キロ、面積はドーム球場10個分、35万平方メートルの規模だった。最盛期は一日に石炭貨車2000両が発着し、毎日3万トン、年間で1千万トンの石炭が運ばれたそうだ。その石炭の黄金時代も昭和時代末期には衰退に向かい、1982(昭和57)年に若松駅の貨物営業が終了する。広大な操車場跡地は国鉄の赤字清算のために売却され、現在はマンションがいくつも建っている。
私が物心着いたとき、時刻表の索引地図を見るたびに「筑豊本線の起点はどうして枝線のように飛び出しているのだろう」と思った。石炭輸送の最盛期を知らないから当然だが、実際は枝線どころではなく、門司港駅に匹敵するターミナルだった。国鉄時代、若松駅は常に貨物取扱量が日本一だったという。現在は旅客列車が1時間に2本だけ。駅舎も小さくて冴えない。しかし、ここはかつて鉄道輸送が栄華を極めた場所であった。

鉄道の最盛期を記す碑文。
-…つづく
第259回からの行程図
259koutei.jpg