05時36分。白馬駅。列車から降りると空気がひんやりとしている。エアコンの効いた車内よりもずっと心地よい。高原の空気を思いきり吸い込んでみる。草木の香り。ハーブフレーバーの酸素だ。肺にたまった都会の空気をすべて吐き出すまで深呼吸したくなる。座り続けた身体のコリをほぐすためだけではない。乗換えホームや駅舎に行くために、跨線橋の長い階段を上る心の準備でもある。
『ムーンライト信州81号』は駅舎よりもっとも遠い3番線ホームに到着した。南小谷行きの列車は1番線から出る。『ムーンライト信州81号』を駅舎よりの1番線に入れるか、南小谷行きを2番線に入れて同じホームで乗り換えさせてくれたらいいのに。気が利かない駅である。
白馬駅。くす玉は何のため?
駅舎を出てみた。小さなロータリーをぶらりと歩いて一周し、なんとなく準備運動を終えた。なにかお祝い事があるらしく、駅前に小さなくす球が吊られていた。この駅は1932年に信濃四ッ谷駅として開業し、白馬駅と改名してから今年でちょうど40周年である。しかし改名は10月のことなので、7月からくす玉を用意するとは考えにくい。
06時00分発の快速で南小谷へ向かう。車両はE127系という銀色の電車だ。この地区しか走っていない希少な形式である。2両編成でワンマン運転をするため、田舎のバスのような整理券発行機や運賃表示板がある。整理券を取らない客が多いところを見ると、私のように青春18きっぷを使っているらしい。夏の汽車旅シーズン開幕である。
北アルプスを眺めつつ。
靄が晴れた。北アルプスの白い山肌、その手前には緑に包まれた低い山が並ぶ。森林が伐採され、芝生のように見える部分がスキー場だ。私が乗った列車は坂を上り、信濃森上の先で分水嶺を越えた。ここから先は姫川に沿い、日本海へ向かって降りていく。川に沿い、川を渡り、箱庭のような景色が続く。そして長いトンネルを通り抜けると南小谷駅である。この列車の終点であり、JR東日本とJR西日本の境界でもある。それを示すようにここで電化区間も終る。松本から南小谷まではスキー場をいくつも抱えた観光路線。南小谷から糸魚川までは糸魚川市への通勤通学、買い物の足となっているようだ。ひとつの路線でもここを境に性格が変わる。だから保有会社も変わるのだ。全線直通列車はない。
南小谷到着は06時20分。乗り継ぐ列車は07時51分発。なんとここで約1時間半も待たなくてはいけない。しかも駅前には時間を潰す施設など何も無い。旅慣れていなければ憮然とするところだが、これが各駅停車の旅、青春18きっぷの旅である。この時間は分刻みで生活する都会人を戒め、おおらかな時の流れに慣れさせるためにあるようだ。南小谷駅の小さな待合室には椅子が並び、畳敷きの小上がりがあって、のんびりくつろげるように配慮されている。ジュースの自動販売機もある。もちろんトイレもある。これ以上は贅沢だといわんばかりの環境だ。
姫川に沿う。
そんな駅舎でのんびりと本でも読んでいれば、あっという間に時間が経つ。しかし今日は落ち着かない。なにしろ東京から『ムーンライト信州81号』が運行され、大勢の乗り継ぎ客が訪れている。小上がりと椅子席はたちまち満席になってしまった。年配の山男たちは白馬で去ってしまったので、ここに降りた人々は若い人たちが多い。そして一様に戸惑ったような表情をしている。テレビやゲームのおかげで退屈など知らない世代かもしれない。昭和の後半の青春映画なら、ここで誰かがギターを取り出し、皆で歌って親睦を深めるところだ。もちろん過去も現在もそんな体験は映画の中の話である。唯一の救いは携帯電話の電波が届くことで、誰もが小さな画面に見入っていた。
私は駅舎を出た。駅舎内よりも外のほうが涼しかった。南小谷駅は姫川に面した崖の上にある。姫川は白馬連峰の雪解け水を集めて日本海へ注ぐ一級河川で、2000年と2001年には日本一の清流となった。暴れ川として人々を苦しめる一方で、ヒスイの産地としても古代より歴史を持つという。日本や朝鮮半島で出土するヒスイの勾玉は姫川で掘り出され、糸魚川で加工されたと言われており、大和朝廷の影響範囲を示す指標という説がある。美しい石を産出する土壌のせいではないだろうが、駅舎の脇に植えられた紫陽花が見事な青紫色で咲いていた。
南小谷駅到着。
姫川に沿う国道もある。南小谷駅前で姫川を渡る橋は千国街道だ。日本海の塩を信濃に運ぶ"塩の道"である。現在も物流の要のようで、この地域には不釣合いな大型トラックやトレーラーが走っていく。私も橋を渡ってみた。空は明るいけれど、ここは谷間だから日陰である。姫川の水面は暗く寂しいが、今はその静けさと涼しさがありがたい。
ちょっと駅前をうろついただけでは時間を消化できない。駅舎に戻ったが、待合室は相変わらず人が多く気温が高い。駅前にはタクシーが1台停まっているが、乗る人はいないようだ。このタクシーは屋根にスキーキャリアを据え付けている。スキー場で有名な小谷村らしい仕様だ。このタクシーで3つ先の平岩駅へ行けば糸魚川行きの区間列車がある。青春18きっぷの達人はそれを"タクシーワープ"と呼ぶ。5人募ればひとり当たり1000円ちょっとの金額らしい。急ぐなら乗るべきだが、急がないから青春18きっぷで旅をしているとも言える。
崖の上の南小谷駅。
列車の響きが近づく。しかしこれは糸魚川行きではなく、私が乗った列車の50分後に白馬駅を出た南小谷どまりだ。つまり、退屈を持て余す人々が倍の数になった。次の列車の発車まであと40分。ついに私も我慢できなくなって、日陰の地面に座り込み、携帯電話のスイッチを入れた。早朝だからメールの着信はなく、日記への返信も無い。判っていたことだが、小さな画面の向こうは現実世界よりもずっと退屈だった。
紫陽花が目を楽しませてくれた。
-…つづく
第252回~の行程図
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