北九州モノレールの小倉駅は未来的だ。JR小倉駅コンコースの巨大なドーム空間と一体化している。私がこどもの頃に見た絵本や、その後のSF映画で描かれた未来の都市のイメージに近い。火星や月にドーム型都市が散在し、それらを結ぶための高速な列車が走っている。列車はドームに突入し、ドーム中央の開放的な駅に停車する。当時の絵本作家たちは、こんな風に街と交通機関が一体化する様子を描いた。
未来的なモノレール小倉駅。
大きな建物の隣に駅を作れば便利。それが近代の鉄道整備の基本だった。しかし、未来の作家たちは建物と駅の一体化を主張した。松本零士氏の漫画『銀河鉄道999』に登場するメガロポリスステーションがまさにそうだし、東京の地下鉄銀座線の渋谷駅は時代を先取りした"モダン"な建築であったといえる。
それはともかく、北九州モノレールは「ドーム空間に列車が乗り込んでくる」という迫力を実現した。JRの改札口を出て、コンコースからモノレールの列車を見上げると、その風景はまさしく未来都市の姿である。終点の企救丘まで、290円のきっぷを買って駅に入る。さっき見上げたホームから、今度はコンコースを見下ろす。こんな巨大な空間が、ひとつ屋根の下にある。これは珍しい。
平和通まではポイントがない。
モノレールは原則的に全区間が高架だ。眺望が期待できるから、私は迷わず先頭車両の運転席の後ろに立った。この列車は島式ホームの右側に停車している。日本の鉄道は左側通行が原則だから、発車するとすぐに分岐器を使って左側の線路に入るはず……と思ったら、発車しても分岐器がなかった。列車はそのまま右側の線路を走り、次の平和通に停車した。
平和通の先に分岐器がある。妙な仕組みだけれど、こんな線路になった理由は、北九州モノレールの開業時に平和通が起点だったからだ。当初は小倉駅に隣接させる計画だったが、前商店街が反発した。ゆえに400メートル離れた平和通を起点とした。JR小倉駅の建て替えを機に小倉駅に延伸した時は、開業から14年後だった。線路をそのまま延伸し、ポイントは現状どおりとしたため、現在のような線路になった。
ビル街を行く。
列車はビルの6階相当の高さを走る。狙い通りの眺望だ。旦過駅を発車直後、神嶽川を渡る場面がいい。その後、大通りの中央を進む様子も堂々たるものだ。ビル街を切り開いて活路を見出したという印象である。高架下の道は広く、おそらく過去に路面電車が走っていた名残だと思われる。
ここはもともと西日本鉄道の軌道で、その交通の近代化がモノレールに託された。ゆえにモノレールの建設には西日本鉄道も出資したし、路面電車の職員たちは北九州モノレールに採用されたとも聞く。現在はすべての株式と債権を北九州市が買い取り、北九州市の子会社、という組織になっている。全額を自治体が出資した。しかし公営交通ではなく、独立採算の会社となっている。帳簿が明確になるし、軌道に乗れば株式を売却してもいい。今後はこのような枠組みが増えるだろう。
列車は城野駅の先で北九州都市高速道路1号線の真下にもぐりこんだ。この眺めも迫力がある。視界は遮られたけれど、太い橋桁に寄り添う安心感。寄らば大樹の陰か、と思っているうちに高速道路と別れた。約1キロメートルほどの併走だった。橋桁がなくなり、周辺の建物の背が低くなったため、空がずっと広くなった気がする。爽快である。
寄らば都市高速の陰。
小倉競馬場駅に着いた。左手に体育館か国際展示場かと思わせる建物がある。小倉競馬場の観客席だった。駅に直結した出入り口もある。こうした施設はモノレールの収益源だ。小倉競馬場駅周辺には、競馬場のほかに北九州市立大学、陸上自衛隊小倉駐屯地、小倉刑務所、運転免許試験場などがあり、通勤通学客以外の需要がある。その意味では北九州モノレールは恵まれた路線だ。もっとも、それぞれの施設の結びつきを考えると意味神妙で、乗降客を観察し所用を想像してしまう。
競馬場の芝の青さを愛でつつ、列車は先に進む。競馬場の次の守垣駅あたりはショッピングセンターがあり、その次の徳力公団前は名前の通り公団住宅が並ぶ。右手は同じ形の団地がが並ぶエリア、左手の丘は戸建て住宅が並ぶ。丘の斜面中腹に階段状で建てられた集合住宅がある。南西向きで日当たりが良さそうだ。背面の地面に設置する部分は外断熱の役割もあるのではないか。秘密基地めいた外観がいい。
小倉競馬場。
小倉駅付近のビル群にくらべると車窓の建物は少しずつ低くなった。徳力公団前を過ぎると風景は完全に住宅街になり、樹木も増えてくる。駅は概ね1キロメートルごとに作られているようだ。徳力嵐山口駅を出ると、線路は左に大きくカーブして勾配となった。この辺りが企救丘という丘だろうと見当をつける。企救丘は"きくがおか"と読む。珍しい知名で、由来はこの辺りの旧地名、豊前国企救郡だという。"きく"という地名は万葉集に出て来るそうだが、表記は企久、規矩といろいろだったらしい。企救に定まった時期は江戸時代後期だそうだ。地名には好字を付けよ、という詔は西暦713年に出された。風土記編纂のためだったという。この地の名がそれから千年も定まらなかった理由はなぜだろう。どうして希久や喜紅などではなく企救だろうか。
丘を越えていこう。
勾配を乗り越えると志井、そして終点の企救丘である。線路はさらに先へ進み、左へカーブして車庫に向かって降りていく。私も駅を出て、車庫に向かって歩いた。駅舎から出ることなくとんぼ返り、という無粋なことはしたくない。しかしここでは車庫くらいしか見るべきものはない。車庫は道路から一段低いところにあって、広大な敷地に線路が輪を描いていた。自動車レースのサーキットに例えるとオーバルコースだ。その周回線路上に検査場や車庫がある。敷地の中央は駐車場だ。職員だけではなく、パークアンドライドのお客にも貸しているようだ。
モノレールの車庫。
さらに歩いていくと日田彦山線を跨いだ。先ほど通った志井公園駅だ。企救丘と志井公園駅は約100メートルほどの距離だった。駅名にもなった志井公園は日田彦山線の東側一帯にある。モノレールの車庫ふたつ分ほどの広大な敷地で、この時期の呼び物はプールらしく、ノボリがいくつも立っていた。プールの入り口と道路を隔てたところにスポーツ施設のビルがあり、その駐車スペースになぜか路面電車が鎮座している。西日本鉄道の路面電車で、行き先表示板には「幸町-門司」とあった。なんでこんなところに、と思うけれど、実はこの建物はもともと北九州市交通科学博物館だったそうで、路面電車はその名残だ。
保存車両は車体の色が冴えず、なんとなく風化が進んでいるようだ。スポーツクラブのオーナーには車両保存の理解などないだろう。この路面電車は、こうして毎日を雨ざらしで過ごし、何台もの自動車に尻を向けられ、排気ガスを浴びている。哀れだ。企て救う者はいないのか。
取り残された電車。
-…つづく
第259回からの行程図
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