柏崎発15時22分の吉田行きに乗る。かつて北関東で活躍していた115系を改装した車両で、シートが明るい緑色の布に張りかえられていた。空いているので4人掛けワンボックスを占領する。靴を脱ぎ、蒸れた足を前の席に投げ出すと、つま先が冷やされて気持ちいい。かなりの臭気を放っていると思うけれど、他の客は遠いので迷惑にならないだろう。柏崎を出た電車は軽快に進み、信越本線と別れて北上する。線路は日本海の海岸線に沿っているが、地図によると海の景色は期待できない。
越後線の115系電車。
越後線は柏崎-新潟間の83.8キロを結ぶ路線だ。ただし全区間を直通する列車は一日2往復しかない。さすがに80キロ以上もあると、区間ごとに乗客数も輸送量も偏ってくる。柏崎から吉田までは閑散区間で一日8往復の運行である。吉田から先は新潟市の通勤圏になっていて、一日20往復以上の便がある。さらに新潟よりの内野からは20分おきの間隔で走る。ローカル線、近郊線、通勤線を1本にまとめた路線である。信越本線よりも短い距離で柏崎と新潟を結んでいるけれど、信越本線の支線的な扱いになっている。日本海沿岸の都市を結ぶ幹線を形成するなら、越後線ルートを本線級としても良さそうなものだ。過去には急行も走ったそうだが、今のダイヤはどうにも不憫で仕方ない。
座席は新車のようにきれいだった。
最初の停車駅は東柏崎。県営住宅が並んでいる。たったひと駅なのに、もともと少なかった乗客たちの半分が降りてしまうた。その東柏崎を出ると右手に大きな工場がある。自動車部品を作るリケンという会社だ。中越沖地震のときにこの工場が被災して、日本全国の自動車生産が停まった。自動車メーカー各社は応援を送ったとニュースがあった。日本製の自動車は国ぐるみで作っているのだと感動したことを覚えている。
原子力発電所は柏崎の海岸に出られず見えなかった。越後線の車窓から見えるだろうか。地図によれば荒浜から刈羽駅にかけての左側に敷地が広がっている。車窓左側に注目だ。しかし、丘と森に遮られていた。そこに発電所があるという手がかりは、真っ直ぐ伸びていく送電線だけである。きっとこれは目隠しなんだろうと思う。もともと丘だったところの海側を掘り下げて発電所を作ったか、あるいは建設残土を盛り付けたか。建物が見えれば、職員食堂で秋刀魚を焼いた煙すら、付近の住民を不安にさせるかもしれない。私は純粋に「原子力発電所の実物を眺めたい」という好奇心のみだが、満たされずに終ってしまった。
丘陵と水田の風景が続く。
礼拝と書いて「らいはい」と読ませる駅がある。キリスト教信仰の地だろうか。しかし車窓からは教会の所在を示す看板は見当たらない。インターネットで調べると、南へ1キロほどにある「道の駅西山ふるさと公苑」に田中角栄記念館があるという。まさか、と思う。ここで若い女の子たちが降りて行き、車内はもっと静かになった。カタン、カタンという線路の響きだけが聞こえる。柏崎駅の過酷な散歩で疲れた身体が午睡を要求している。そこをなんとか耐える。初乗りの区間だからである。
「山沿いの信越本線に比べれば、海沿いの越後線あたりは平坦ではないか」という予想は半分くらい当たっていた。確かに線路は平坦な場所を選んでいるけれど、見渡す限りの平野ではない。両側の車窓には丘がいくつも現れては去っていく。石地の手前から右手の丘の上にドーム上の建物が見えている。ガスのタンクのようであるが、あんなところには置かないだろうと思う。天文台なのか、宗教なのか。肉眼では判らないので、デジカメを最望遠にして撮り、カメラの液晶モニタで拡大して見る。やっぱり判らない。今度こそ陰謀かもしれない。
謎のドーム。
出雲崎という駅がある。新潟なのに出雲である。どこかで聞いたことがあると思ったら、黒人演歌歌手のジェロ氏のデビュー曲に登場する地名だった。駅は海岸から離れているので歌詞のような情緒はない。地図を見てもなだらかな海岸で「崎」がない。昔はこの辺りまで海で、丘のひとつ一つが岬だったのかもしれない。いや、「崎」は山篇だから、丘の終わりに海がなくても「崎」は正解なのだろう。ここは良寛和尚のゆかりの地であり、海岸は夕陽の名所だという。北前船の補給地であり、佐渡金山の陸揚げの地でもある。賑わしい経歴の割には、出雲崎駅も駅周辺もつつましい佇まいである。歴史も賑わいも海のほうらしい。
車窓の水田の奥にブルボンの工場を見つけた。クッキーやチョコレートなどを作っている会社である。子供のころから食べていたお菓子なのに、ブルボンの本社が柏崎市であることを、柏崎駅の名産品紹介コーナーで初めて知った。米どころの水田の真ん中に、小麦粉とバターを使う工場があるという風景が興味深い。亀田製菓や柿の種の浪花屋製菓が新潟だという話はとてもわかりやすいが、洋菓子のブルボンは意外だ。そういえば母の家系は新潟の出身で、東京・大田区で銭湯を経営する母の実家に遊びに行くと、柿の種やブルボンのお菓子がよく出てきた。祖父母にとってブルボンの菓子は故郷の味だったのかもしれない。
ブルボンの工場が見えた。
公式サイトによると、この会社は大正13年に北日本食品株式会社として創業した。創業者の吉田吉造が、関東大震災の影響で全国の菓子の流通が止まった窮状を見て、地方にも菓子工場が必要だと決意したという。そんな会社が中越沖地震で被災するとは皮肉だが、幸いにも軽微な被害で済み、地震当日から各地の避難所に自社製品の寄付を開始した。同年12月には災害義援金として2,000万円を自治体に寄贈。年末には仮設住宅の入居者全戸にギフト商品をプレゼントしたそうだ。芸能人の慰問の話は度々聞いたけれど、ブルボンの貢献は初めて知った。
こういう話はもっと宣伝されてもいい。私は今までブルボンについて、なんとなく野暮ったい印象を持っていた。老舗であるし、祖父母の家に必ずあるし、外人タレントを使ったCMもなんとなく垢抜けない印象だった。しかしこれからはそんな先入観を捨ててどんどん食べようと思う。柏崎での無礼な振る舞いの罪滅ぼしという気持ちもあるけれど。
越後線の車窓に話を戻そう。港の名が知られる寺泊も、駅のほうは海から離れている。越後線は民間資本の北越鉄道が建設、開通させたというが、このルートが相応しかったのか。もっと海寄りに線路を敷き、港をつないだほうが良かったのではないか。いや違う、海側には船という交通手段があって、むしろ越後線沿線こそ交通の空白地帯。だからここに線路を敷いたのだ。そんなことを考えていると列車は信濃川を渡った。信濃川は日本海に注ぐ。上流には長岡、魚沼がある。魚沼が米どころとして栄えた理由は、信濃川経由で北前船に米を積み込めたからではないか。そういうことなら信越本線が長岡を選んだことも理解できる。
信濃川を超えて。
信濃川を渡った先の駅が分水。信濃川の水を分けるから分水だ。これは判りやすい。丘が遠ざかり、水田よりも建物のほうが多くなっていく。このあたりは燕市である。鉄製食器製造で有名な町だ。列車は市街地の駅にひとつずつ停車して、終点の吉田駅に到着した。
-…つづく
第252回~の行程図
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