ワンダーラクテンチは別府市街の外れにあり、歩くには遠い。バスで行くところである。別府駅の海側と山側にバスターミナルがあって、ラクテンチのある山側で乗り場を探したけれど見つからない。案内所で訪ねると、なぜこんなところにと思うような美人がいて、海側の市内バス乗り場だと教えてくれた。たしかに行き先案内にラクテンチがある。もっと大きく書いてくれてもいいのにと思う。それとも、地元の人なら常識だろうか。
バスを待っていると、隣に観光バスが停まった。別府名物の地獄巡りである。地獄といってもホラーツアーではなく、温泉がわき出る場所の奇怪な風景を地獄に見立てている。別府観光の目玉であり、歴史もある。日本初の女性ガイド付き定期観光バスだ。考案者は油屋熊八。彼は別府観光の開拓者であり、日本の観光産業の基礎を作った発明家でもあった。

別府駅前の油屋熊八像。
その人生には啓発される何かがある。
観光事業の成功者として名を残し、別府駅前に銅像も建つ油屋熊八。しかし彼は王道を行く者ではなく、むしろ敗者復活戦の勝利者だった。大阪で相場に手を出し、いったんは成功するが惨敗。逃げるようにアメリカに行き、そこでも失敗。妻がいる別府に逃げ込んだ。そこで熊八は、たった二間の旅館を始める。その名は『亀の井旅館』。『亀の井旅館』は小さいながらも最高の蒲団と最高の料理を用意してお客様をもてなした。それが評判となって規模を拡大。いまや別府を代表する大ホテル『別府亀の井ホテル』となっている。熊八は当初から別府の温泉に着目し、別府そのものを売り出すため、「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」という標柱を全国の有名観光地に立てた。観光業の宣伝広告の始まりで、別府はたちまち商圏を全国に拡大した。
次に熊八はクルマに注目した。別府で初めてクルマを購入し、旅館の客の送迎や観光案内に使った。当時はクルマ自体が珍しいから、それだけでも集客になったのだろう。そして熊八はついにバスを購入し、地獄巡りと称して源泉を巡回させる。しかも美人のバスガイドを載せ、七五調の流麗なリズムで案内した。これが前述の日本初の定期観光バスである。バスガイドは「16歳から19歳まで。未婚で高卒、体格、音声、素行、容姿を厳しく審査」したという。ハイティーンの知的美人とは、昔も今も変わらぬ男性のツボを突いている。お客をもてなすなら美人でなければならぬ。別府も大分も、熊八の教えを今でも守っているようで、観光客に応対する職業の女性はみな美人である。観光案内所、土産屋、エキナカの薬屋もすらっとした美人揃いだ。

ラクテンチ正面玄関。奥にケーブルカーが見える。
路線バスは海沿いを巡ったあと、山に向かって向きを変える。この道は日豊本線の線路を潜り、一直線でラクテンチへ向かっている。前方に注目すれば、すこしずつゲートが大きくなってくる。バスの乗客は停留所ごとに減っていき、結局、ラクテンチで降りた客は私だけだった。周りに誰もいない。隣の立体駐車場に2台の乗用車。まさかあれだけが今日のお客だろうか。月曜日とはいえ、学校の夏休み期間中である。経営不振の遊園地という予備知識がなければ、休業日だと思いこみそうだ。しかし見上げれば、確かにケーブルカーの車両が上下している。窓口に近づけば中に人がいる。
ラクテンチは入り口が丘の麓にあり、遊園地の本体は丘の上である。だから、入場者は強制的にケーブルカーに乗せられる。ケーブルカーによって、地上の現実世界から夢の国へスイッチさせる仕組みだ。これは当時としてはなかなか良いアイデアだった。天国の油屋熊八もびっくりだ。ラクテンチは別府の街を見下ろす天空の城。新しい別府観光の象徴だった。
『Bとくとくパック』1,000円を購入する。300円の乗り物券が4枚ついて、200円の"とく"であった。ラクテンチの入場料が600円で2枚分、ケーブルカーを往復すれば2枚でちょうど使い切る。発車時刻は毎時00分、20分、40分。さっき13時00分のケーブルカーが動いていたから、次の発車まで約20分もある。冷房の効いた待合室に逃げ込み、大きな冷房機の吹き出し口で冷気を浴びる。先客のおじさんが独り。しかし私と入れ替わりに立ち去った。私と同じ"お別れ組"と思われる。

スター号。足回りは創業時のままだという。
ケーブルカーは彼とふたりきりか、と寂しく感じていると、外にタクシーが来て、老夫婦と中年女性の姉妹が降りてきた。遊園地そのものにお別れに来る人もいるのだな、と思う。なにしろ創業80年である。別府市の全員が遠足やレジャー、あるいはアルバイトなどで思い出を持っているだろう。身内の思い出話が始まったようすで、私は待合室を退出し、改札の手前からケーブルカーを眺めた。赤い『スター号』の手前に鋼索鉄道事業免許の看板がある。壁には思い出の写真、昭和30年の佇まいや、園内の満開の桜などが掲げられている。車内持ち込み禁止物の一覧が細かく、百グラムを超えるフィルムやセルロイドはダメだとか、何とかリン、何とかバイトなどいちいち成分まで書いてある。物騒な時代があったのかな、と思う。
事務室から女性が出てきて改札が始まった。とくとくパックの乗り物券を3枚ぶん、切り取られた。この女性もモギリにはもったいないほどの美女である。窓口の女性も美女である。別府は美女しかいないのか、美女が余っているのか。それともこれはすべて幻で、暑さで私の目がぼやけているのか。階段状のホームを上がり、車内で発車を待つ。件の男性は来ない。老夫婦一行は来た。親子連れが二組ほどやってくる。子供がいて良かったと思う。

線路と車掌、どちらも見ていたい。
いよいよ発車である。ケーブルカーは動力が丘の上の駅にあるから、運転士ではなく車掌が乗る。なんとこの車掌氏も女性で、私が別府でお目にかかってから一番の美女だった。何でこんなところにこんな人が。いやそれは失礼かもしれないけれども。運転台に凛と立ち、前方を見つめる様子は清々しい。私は彼女の斜め後ろに立ち、ケーブルカーの車体や景色を見ようとしている。しかしどうも彼女に見とれてしまう。もっとも彼女のほうは観光ガイド役でもあるから、乗客の視線には慣れているのだろう。自然な様子でマイクを取り、ケーブルカーの案内を語り始めた。
ラクテンチケープルは1929(昭和4)年に開業した。距離253メートル、高低差122メートル、最大勾配は559パーミル。パーミルとは千分率の単位で、1,000メートルあたり559メートル上昇するという勾配だ。これはおそらく日本でもトップクラスの急角度であろう。正面の線路が梯子のように見える。まっすぐ手を伸ばせば触れそうでもある。ケーブルカーの景色は下側のほうが眺望がいいけれど、勾配を楽しむなら上側だ。その窓ガラスに水滴がつき始めた。大分では晴れていたのに、どうもハッキリしない天気である。

上下便の挨拶は楽しいセレモニー。
途中で分かれた線路で相方の車両とすれ違う。そのとき、お互いの車掌が手を振って挨拶する。それを見た子供たちも手を振り合う。下りのほうが乗客が多い。悪天候を知り、早めに帰る人が多いようだ。さらに進み、上の駅にすっぽり包まれる。なんとなくつるべ式の井戸の桶になった気分で、それがまた妙に楽しい。こうしてわずか3分ほどの乗車が終わった。

雨の遊園地探訪になりそうだ。
-…つづく
第259回からの行程図
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