■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。




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第251回:地下の輻輳
-地下鉄副都心線3-




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感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■著書

『知れば知るほど面白い鉄道雑学157』
杉山 淳一 著(リイド文庫)


■更新予定日:毎週木曜日

 
第252回:A席の客 -ムーンライト信州81号-

更新日2008/08/07


単行本の仕事が大詰めで、忙しくて汽車旅に出られなかった。幸いにも東京近郊の新線開業が続いたので『のらり』に書くネタには困らなかったけれど、そろそろ遠くへ行きくなった。北海道に遠征したいが、報酬がまだ入金されないので懐が寂しいし、このままでは『のらり』が休載になってしまう。そこでこの夏は「青春18きっぷ」を活用する。期間限定で1万1,500円。JRの普通列車に限り一日乗り放題で5回分使える。1日あたり2,300円だ。夏、冬、春に発売され、活用ガイド本も書店に並ぶから、鉄道ファンだけではなく旅行好きにも有名なきっぷである。

7月20日の夜。私は新宿駅発23時54分の快速列車『ムーンライト信州81号』に乗った。この列車は観光シーズンに運行される臨時列車だ。中央本線をひた走り、途中の主要駅に停車しつつ松本駅に04時32分に着く。さらに大糸線に乗り入れて、白馬駅着は05時36分である。長距離を走るが、特急や急行ではないので青春18きっぷで乗車できる。今日は3連休の中日だし、夏の青春18きっぷの利用開始日ということもあって混んでいた。私が一週間前にきっぷを買ったときも、すでに窓際の席はなく、通路側も残席わずかだった。私の席は通路側のB席だ。隣のA席は空いている。途中の立川か八王子から乗ってくるのだろう。


かつて在来線特急『あさま』で使われた電車。

青春18きっぷをさらに活用する方法として、夜行快速との組み合わせが定番だ。『ムーンライト信州81号』の場合、新宿駅で乗車するときに青春18きっぷを使わず、立川までの乗車券を購入する。青春18きっぷは1日有効のきっぷだから、新宿から使うと0時過ぎに停車する立川で1回分の効力が終ってしまう。したがって立川駅までの乗車券を購入し、車内検札で清算するときに青春18きっぷを提示する。こうすれば青春18きっぷを丸一日有効に使える。ムーンライト信州81号の場合、新宿から立川までは450円だから、青春18きっぷ1回分の2,300円よりも安い。

走行中に日付が変わり、立川着は00時28分。ホームにはグループ客が何組か並んでいた。ハイキング、あるいは登山へ向かう装いである。終電を逃した通勤客にも便利そうな時間だが、全車指定席のためかスーツ姿は少ない。私の隣のA席にはどんな人が来るだろうと思っていたが、列車が動き出してしばらく経っても空席のままだった。八王子から乗ってくるのかもしれない。A席に座るにはB席を跨ぐわけで、私が足を伸ばして眠ったら不便だろうと思う。だから眠らずに待っているのだが、八王子駅でもA席の客は乗ってこなかった。次の停車駅は01時26分着の大月、02時ちょうどの塩山だ。そんな時間に旅立つ人がいるとは思えない。もしかしたら空席のままではないかと思う。空席なら私が移って、窓に寄りかかって眠りたい。しかし万が一乗ってきたら気まずい。


終着駅は北アルプス山麓。所要時間は5時間42分。

この電車は普通列車の快速だが、車両は特急用が使われている。国鉄時代の古い電車だけれど、シートは新調されており、背もたれが深く倒れる。これが乗車券プラス510円の指定席券で乗れるとはありがたい。私はB席に座ったまま目を閉じた。エアコンの効きが悪く、いつまでも肌にねっとりと湿気が付いて快適とはいえない。しかし眠気には逆らえない。A席さんには悪いけれど、勝手に私を跨いでいただこうと思う。

ふと気付けば空が明るい。眠ったというよりも意識が飛んでいたというほうがふさわしい気がする。多少は眠れたようである。列車はどの辺りを走っているのだろうか。なんとなく見慣れた景色のような気がする。駅を通過。広丘と読めた。塩尻を過ぎたらしい。見慣れた景色であるはずだ。私は学生時代を松本市で過ごし、アルバイトで広丘の工場に通っていた。電車ではなくクルマだったけれど、国道と線路は並んでいるので景色はほとんど同じである。ここは私の第二の故郷だ。

それにしても、いったいどれほど眠れたのだろう。時刻表を引っ張り出して検証する。大月駅を見た記憶がないので、八王子を出た後すぐに眠ったらしい。茅野に停車した様子は覚えている。下諏訪の駅も見た。すると、3時間半ほど眠ったようだ。終着の白馬まではあと1時間ほどあるから、まだ居眠りをするだろう。合計4時間程度の睡眠だ。夜行の座席車としては悪くない。私は普段でも5時間程度しか眠らない。


夜明けの太陽が山を照らす。

景色が少しずつ懐かしくなってくる。車庫に並んだバスの色が塗り替えられ、新しい高層の建物がいくつか見えた。20年でその程度しか変わっていない。分岐器をガタガタと通過して松本着04時32分。定刻である。ホームに山歩きの姿をした人々が並んでいる。松本に泊まって身体を休めてから登山に向かう人々だろう。立山黒部アルペンルートを踏破する人々かもしれない。ここから先『ムーンライト信州81号』は大糸線の始発列車を兼ねている。ここで降りる人も多い。見渡せば、松本電鉄の電車に灯りがついている。早朝から接続便が出ている。松本電鉄は上高地や乗鞍に通じている。山男たちには馴染みの電車である。

私の隣のA席は使われた形跡がない。もしかしたら松本から乗る人がいるかと思ったが、やはり誰も乗ってこなかった。指定席を入手したが都合が悪くなったらしい。あるいは仮押さえのつもりで指定席を確保して、乗らないとわかっても払い戻しをしなかったようだ。私は乗車前に駅で座席の変更を試みたけれど、窓際の空きはなかった。払い戻してくれたらこの席に座れたのに、と思う。しかし510円である。払い戻しには320円の手数料がかかるため、手続きをしても戻ってくるお金は190円だ。わざわざ駅に行き、窓口に並んで手続きをするくらいなら流してもいいや、という金額である。でも、そうかといって手続きをしなければ、列車に乗りたい人が座席を確保できなくなってしまう。


静かに水をたたえる湖。

夏休み、青春18きっぷの時期の夜行快速は人気があるだけに、この状態はよくないな、と思う。指定券料金はそのままにして、デポジット制度を採用したらどうだろう。2,000円程度の金額を上乗せして請求し、乗車時にホームで返金する。それなら乗らないと判った時点ですぐに返金を求めると思うのだが。あるいは『ムーンライト信州81号』の場合、八王子までを乗車駅とし、それ以降の空席はキャンセルとみなして再販売可能とする。うむ。そのほうが良さそうだ。鉄道会社の増収になるし、乗客にとっても便利である……。というようなことを考えつつ、私は窓際のA席に移動し、ぼんやりと第二の故郷の車窓を眺めた。本来は自分の席ではない窓際で、落ち着かないところだ。しかし寝起きのアタマでは適度に鈍感になっていて、大糸線の車窓へと関心が移っていく。

豊科駅の手前、小学校だろうか。洋館風の建物がある。臙脂色の屋根で中央に小さな塔がある。たぶん上から見るとL字型で、こちらにL字の内側を向けている。何かに似ていると思って、車窓から通り過ぎたあともしばらく思い返すと、パソコンゲーム『エイジ・オブ・エンパイア』の建物、町の中心に似ているような気がする。西洋の中世が舞台のゲームに登場する建物に似ているとは、ずいぶん洒落た建築である。


薄雲の向こうの太陽。

だいぶ日が高くなった。薄い曇の空の向こうに太陽がある。障子紙をかざして灯りを見るようで、丸い形が見えてもまぶしくない。こんな太陽は初めて見た。高原の気候で湿気が多いとこうなるのか。あるいは私たちは雲の中にいるのだろうか。いや、曇り空に包まれた場所は線路の辺りだけのようだ。車窓左側には北アルプスが姿を見せている。白い山肌がオレンジ色に輝きだしている。私にとっては懐かしき信州の朝の風景だ。ふと見渡すと空席が増えていた。私は反対側の窓際、つまりD席に移って景色を眺めた。すでに『ムーンライト信州』は全区間全席が指定席である。しかし、夜が明けるとその効力は薄れてしまうらしい。


白馬到着。鉄道ファンが記念撮影中。

-…つづく

第252回~の行程図
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