第47回:ライオット・ショック1 ~アメリカの病
更新日2003/02/06
アメリカに住んでいて、「今までに、怖い思いをしたことはありませんか?」という質問は多い。確かに、3秒に1回の割合で犯罪が発生する米国で生涯を平和に暮らすことができるのは、極めて稀なことである。
時に、多人種国家が抱えた病も目の辺りにすることもある。私の中で忘れられない恐怖の体験は、渡米して2年目の、1992年の5月の事件だった。
その日、CNNニュースは、LAのハイウエイ・パトロールの3人の白人隊員たちが、スピード違反をした一人の黒人ロドニー・キングに対して殴る蹴るの暴行を働いたシーンを隠し撮った映像を放送した。
その後、抵抗しない黒人に暴行を行った白人警官たちの無罪がニュースで伝えられると、米国中の黒人たちが、不当な裁判に対して人種差別を掲げた大規模なデモを始めたのだ。特にLAを中心とした西海岸の抗議デモは、すさまじさを極め、それはやがて無差別な放火や暴行、略奪へと発展してしまった。
当時のシスコも例外ではなかった。黒人を中心とする暴徒と化したデモ隊が、ダウンタウンの商店を襲う事件が多発し、一般市民に対して夜間の外出禁止令まで出される始末だった。
また、悪いことにこの事件の最中、LAの韓国人が経営するコンビニで、店主が万引きを働いた黒人女性を射殺する事件が起こり、アジア人に対する憎悪を同時に植え付けてしまったのだ。
この時期に、5月のゴールデンウィ-クを利用して西海岸を旅行していた日本の観光客は、当然、予定されていたすべてのツアーがキャンセルになり、ホテルから一歩も出られない事態になってしまったのだ。
そんな中、GUNショップの電話が鳴った。
「GUNツアーに参加したいのですが…」
そんな非常識なお客の質問に、私は今の事態を説明してツアーの催行が難しいことを告げた。
「そうですか、明日、日本に帰りますが、暴動が始まったので、旅行にきてホテルから一歩も出ていないのです。GUNのツアーなら大丈夫と思い、電話を差し上げたのですが……」
その物腰の低い言葉を聞いて、私はその不憫な観光客に対して変に正義感を出して言ってしまったのだ。
「大丈夫です。特別に私が案内しましょう!」
お客を迎えに向かう車の車内から見たダウンタウンのホテル周辺は、昼だというのに人通りも少なく、暴徒からショーウインドを守るために、ベニヤ板を貼り付けている店が多く、まるで台風がやってくる前の様相であった。
ホテルに着いてそのお客さんを迎えに行くと、それは若い男性二人組で、私に対し、
「ありがとうございます!」
と、今回始めてホテルから出ることに、喜びを隠せない様子だった。私も、サービス業をしていれば、お客の感謝の気持ちが一番の報酬だと思うようになっていたのだ。
射撃場に向かうため、全長6Kmのベイブリッジを渡っていると、急に渋滞に巻き込まれた。まだ、平日の昼過ぎである。帰宅ラッシュにしては少し早いな。事故か? と思った。ラジオを付けると、ちょうど大規模なデモ隊がオークランドから徒歩でシスコに向かっている、と放送があった。
徒歩で? そんな馬鹿な! つまりこの自動車専門道路であるベイブリッジを渡っているというのか!? その内、渋滞はますますひどくなり、完全に車は動かなくなってしまった。
そして、前の様子を見るために、車から降りるドライバーもいた。が、誰かが咄嗟に叫ぶ。
「みんな! 車に戻れ! ロックをしろ!」
遥か前方からこちらに向かって近付いてきたのは対岸のオークランドから来た、数百人の黒人のデモ隊であった。オークランドは、黒人の人口が多い街である。しかも、デモ隊は他人の車の屋根に登ったり、鉄パイプで車のフロント・ガラスを割りながらこちらに進んでくるのが見えた。まるで無法地帯だった。
私は、咄嗟にバンの中のお客に叫んでいた。
「外から見えないように、伏せて!」
彼らに韓国人と日本人の見分けは付かない。この時期、憎悪の対象である我々に安全の保障もない。私も車に戻り、サングラスをかけて、帽子を深く被った。お客の安全を守らなければと、万一のために用意しておいた、愛用の拳銃45口径の1911A1をショルダーホルスターから抜いて、スライドを引いた。万が一の場合、何時でも射撃は可能だった。
その私の行動の一部始終を車内で見ていたお客が小さい声で呟いた。
「怖いよ……」
二人共、立派な20代後半の男性である。が、このように恐怖を味わうのは恐らく初めてだろう。実弾を装填した拳銃を手に、私は、
「大丈夫。何時ものことですよ。」
と励ました。
やがて、黒人たちの集団は、我々の車へと近付いてきた。拳銃を握る手が汗ばむ。“何もありませんように…”と心の中で呟いた。
大人に先導されたのであろうか、デモ隊の中には少年の姿も多かった。彼らは、私たちの乗る送迎用のバンの側面を叩きながらすれ違った。数百人のデモ隊が通過するのに約10分間くらいだっただろうか? その時は、何時間にも感じられた。デモ隊は、私たちの乗る車には、幸い何もしなかった。お客も無事であった。しかし、お客は顔面蒼白で、こんな目に会うのならホテルでじっとしておくべきだった、と言う顔で私を見た。
その後、無事射撃を終えてホテルにお客を送る時には、1日10万台の車が利用するベイエリアの交通の大動脈、ベイブリッジはデモ隊により閉鎖されてしまった。普段なら30分で走れる道を、ベイを迂回して4時間かけてホテルに帰った。ベイブリッジ閉鎖は、1989年のシスコ大地震以来の大事件だった。
良心をたてに判断して行ったツアーだったが、お客の身にも危険を及ぼしかねない結果になってしまった。そして、この後、さらなる危機が私を襲うことになるのは、この時点で知る由もなかった。
第48回:ライオット・ショック2 ~GUNショップろう城