■拳銃稼業~西海岸修行編

中井クニヒコ
(なかい・くにひこ)


1966年大阪府生まれ。高校卒業後、陸上自衛隊中部方面隊第三師団入隊、レインジャー隊員陸士長で'90年除隊、その後米国に渡る。在米12年、射撃・銃器インストラクター。米国法人(株)デザート・シューティング・ツアー代表取締役。



第1回:日本脱出…南無八幡大菩薩
第2回:夢を紡ぎ出すマシーン
第3回:ストリート・ファイトの一夜
第4回:さらば、ロサンジェルス!その1
第5回:さらば、ロサンジェルス!その2
第6回:オーシャン・ハイウエイ
第7回:ビーチ・バレー三国同盟
第8回:沙漠の星空の下で
第9回: マシン・トラブル
第10回: アリゾナの夕焼け
第11回: 墓標の町にて
第12回:真昼の決闘!?
第13回:さらばアリゾナ
第14回:キャラバン・ターミナル
第15回:コンボイ・スピリット その1
第16回:コンボイ・スピリット その2
第17回:砂漠の不夜城
第18回:ギャンブルへのプロローグ
第19回:ラス・ベガス症候群
第20回:ギャンブラーとして
第21回:自由の中の葛藤
第22回:アメリカン・ドリーム
第23回:長距離バス
第24回:霧の街サンフランシスコ その1
第25回:霧の街サンフランシスコ その2
第26回:運命の実弾射撃ツアー
第27回:パシフィック銃砲店
第28回:ラスト・チャンス
第29回:3日で米国人になる方法 その1
第30回:3日で米国人になる方法 その2
第31回:実弾射撃を教える訓練!?
第32回:武器商人
第33回:大道芸人
第34回:オー・マイ・GUN
第35回:ガン・ファイター列伝 その1
第36回:ガン・ファイター列伝 その2

■更新予定日:毎週木曜日

第37回:徴兵の日

更新日2002/11/21


その日は会社の近くにあるいつもの中華料理屋でアレンと昼休みにランチを食べていた。店内にあるテレビからお昼のCNNニュースが流れていた。
「号外です! イラクがクエートに軍事侵攻しました!」
クエート市内を走るイラク軍の戦車の映像を見て、隣りでランチを食べていた他の米国人たちは、口を揃えて、
「オー・マイ・ガーッ!」
を連発している。

グレナダ侵攻から僅か7年、パナマ侵攻もまだ記憶に新しい1990年の夏、本格的な米軍の海外派遣が、再び開始されようとしていた。
「また、ややこしくなるな…。」
アレンは呟いた。彼は、私と同じ歳ではあるが、すでに15年もアメリカで生活しているせいか、CNNの臨時ニュースを見ている表情も淡々としていた。

すでにニュースは、米国民に対し、中東への正義的介入をまくしたてている。
「いや~、また始まったね!」
GUNショップに戻ると、山下社長やマイクも何となくソワソワしていた。観光客に依存している経営者にとって、米国の戦争介入は大敵である。が、それにも増して国内のGUN需要が飛躍的に伸びるので、ツアーとGUNショップを経営している、下山社長には複雑な心境なのである。

何故かと言えば、米国が戦争介入すれば、膨大な弾と銃が軍隊に納入される。そうすれば、米国内マーケットの銃と弾が不足する。其処へ戦争に対する不安や、危機意識や愛国心から自己防衛的な風潮が国内に蔓延して、さらにここでもGUNや弾が売れる。ベトナム戦争以来のアメリカにそんなパターンが、でき上がってしまったようである。

案の定、次の日からは、パシフィックGUNショップには連日沢山のお客が訪れて売上げが倍増、それに日本から射撃にくる観光客も激減したので、私もGUNショップの店員として連日武器商人をする羽目となってしまった。

射撃場では、フセイン大統領の顔入りターゲットまでが、飛ぶように売れる始末だった。それは、はたから見ると、米国民は米国が戦争に介入することに対して、あたかもお祭りでも始まるような感覚で捉えているように見えた。

イラクに対して、米国の経済封鎖が始まるといよいよ国内も、戦争準備の空気で盛り上がってきた。ニュース・新聞などのメディアからは、国民に対し繰り返し、中東平和と正義のための戦争という名目で我々は戦うのだと、まるでサブミラル(繰り返し)効果で、米国民が中東湾岸への侵攻の必要性を植付けられているのは、日本人の私から見ていても非常に滑稽であった。

来年の年明け頃に、いよいよクエートへの侵攻が「砂漠の嵐」作戦として開始することが決定した頃であった。下宿の郵便受けに、見慣れない鷲のマークの付いた茶封筒が、私宛に投函されていた。差出先は、Selective Service Systemと書いていたが、書いてある内容がよく分からないので辞書で調べることにした。

文面中の'ドラフト(徴兵)'の文字が、目に入った。
「赤紙だ…。」
思わず辞書をバタンと閉じて、そのインパクトに思わず手が震えた。話には聞いたことがあったが、日本から来て僅か半年の私に届いた茶封筒は、徴兵登録カードであった。徴兵の対象は、米国に住む18歳から25歳までの男子であるが、永住権のない私さえもが、その中に入っていたとは驚きだった。

この時期、日本人の男子留学生にもこのカードが届いて国際的な問題になったこともあった。もちろん、留学生は徴兵の対象から外れているので問題はない。

ドラフト制度は、アメリカ建国以来現在まで続けられており、ベトナム戦争では米国内に居住する多くの日本人がインドシナのジャングルに送り込まれたことは、聞いたことがある。それ以来、ただ休止中ということで、ドラフトの廃止には至らなかったようだ。

もちろん、基本的に米国の軍隊は志願制で、私に送られてきたのは予備カードで、要するに戦争が長引けば徴兵されるので、現住所をハッキリしておきなさいというモノだった。

先日取得した運転免許書から身元が分かったようだ。徴兵登録カードの一番下の欄には、1ヶ月以内に返送しない場合や、住所の偽造が発覚した場合、2万ドルの罰金を課する、と御丁寧に書いてある。あくまでも、徹底したやり方だった。

夜、下宿でそんな徴兵登録カードと睨み会っていると、下宿の外が何やら騒がしくなった。カーテンを開いて見ると、ダウンタウンの道沿いに数千人の反戦デモ隊が練り歩いていた。それぞれ、『戦争反対』などの文句をプラカードに貼って行進していた。

そういえば、ここサンフランシスコやバークレーはベトナムの時も全米で一番反戦運動が盛んだったことを聞いたことがある。その後平和へのメッセージは、世界中の学生運動の原動へと発展したようだ。

私も、別に戦争が怖い訳ではない。ただ、自分が米国にきた意味を考えると、星条旗の下でアメリカ兵として銃を取って中東でイラク人たちと殺し合いをするのは、あまりにも馬鹿げていた。

しかし、何となく徴兵登録カードに、自分の名前と住所を記入してサインして送り返したのは、現代型戦争の特徴が分かっていた余裕と、50%くらいの冒険心があったことも否定できない。

年が明けた1991年始め、クエートでの「砂漠の嵐」作戦は、米軍を中枢とする多国籍軍の一方的な勝利で幕を閉じた。米国民は、遠く中東から送られてくる、まるでTVゲームのような戦争映像を見て食事中でも歓喜していた…。それは、戦争の罪悪感なども微塵も感じさせない異様な光景であった。

ハイテク兵器を駆使した戦争は予想通り、古い徴兵制の必要性を否定するようなスピードで戦争の行方を決めたのであった。

 

 

第38回:アダルトなスクール