第24回:霧の街サンフランシスコ その1
更新日2002/08/22
深夜の3時を回ったシスコには、すでに街中には人影もない。これはロスでもそうだったが、ラス・ベガスという街があまりにも特別だったのだ。
しかし、ダウンタウンを歩いていると、グロッサリー(コンビニ)のある交差点には、必ず時間に関係なく黒人が、何をするということもなく数人立っている。慣れないとかなり不気味であるが、これもアメリカのダウンタウン風景の一つである。荒らされたゴミ箱、鼻を突く排泄物の匂いが、むしろ懐かしい。
今日は、朝まで久々の野宿を決めてもいいが、この寒さの中、街中で寝袋を出すわけにも行かない。仕方なく宿を探すことにする。バス停から15分位歩いたところで、「イースタンホテル」と書かれた古い看板を見つけた。扉には、付近の治安がよくないことを示す丈夫な鉄格子が二重に取り付けられていた。
とりあえず呼び鈴を押してみたのだが、反応がない。それもそのはず、深夜の3時過ぎにチェックインするような旅行者はいないだろう。あきらめて行こうとしたとき、突然、入口の電気がついたのだ。
そして扉が開き、頭にピンクのカーラー・ネットを巻いたアジア系のおばさんが、パジャマ姿で眠そうな顔を出した。日本でよく見かける典型的なおばさんスタイルに妙な親近感を覚えたが、いきなり、
「誰だい、こんな夜中に!」
と一喝された。
疲れているとはいえ、あまりに常識のない自分に気が付き、思わず、
「ソーリー」
と言いながら、通り過ぎようとすると、
「待ちな! あんた日本人かい?」
と英語で言われた。頷くと、
「今、開けるから」
と、すぐに鉄格子の電気ロックを解除する音がした。信じられないことに、ゲートを入るとおばさんからいきなりカギを手渡され、
「3階の301だよ」
と言われたのだ。お金を払おうと財布を出すと、
「いいよ、明日で。早く寝な!」
と言いながら、おばさんはそそくさと管理人室に入って行ってしまった。
なんとなくそのうしろ姿に、日本に残した自分のお袋がオーバーラップしてしまった。流れ着いた最後の街で、この暖かい体験は、この街での未来に期待を高めてくれるのに十分だった。
早朝、部屋の中で遠くから船の汽笛の音が聞こえた。半島の先にあるサンフランシスコは周りを海で囲われているので、どこからでも聞こえるらしい。すでにガタガタで、ペンキを何度も塗り直した窓を開けると、空にはまだ霧が濃く出ている。
適度な湿気を含んだ空気は、吸い込むと久々に美味かった。やがてガタガタと路面電車の走る懐かしい音や、急勾配の坂道をエンジン全開で走るバスの音など、生活の響きが多くなってきた。その喧騒で、なんとなく日本に帰ってきたような錯覚にとらわれる。
部屋は十畳位の広さで、TVも冷蔵庫もなかった。ベッドと机が置いてあるだけのいたって質素なつくりである。8時頃になると、不意に部屋をノックする音が聞こえた。開けてみると、昨日のカーラーおばさんだった。
「朝飯だよ! 下に降りてきな」
朝食? アメリカでは通常ホテルには食事など付いていないはずだ。言われた通り1階まで階段を降りて行くと食堂があり、そこではすでに何人かの旅行者が食事をしていた。
宿泊しているのはアジアやヨーロッパからやって来たバックパッカーが多いようで、日本人らしき人もいる。そこで、宿泊者には無料でコーヒーとパンとゆで卵をセルフサービスで提供しているのだ。あのおばさん、無愛想だが旅行者には寛大で親切な人らしい。
食事が終わると、昨日の代金を払おうと、フロントのおばさんのところへ出向いた。代金は1泊たったの20ドルだった。もし1ヶ月の長期滞在なら280ドル。こんな便利な街中で、しかも朝食まで付いてこの料金は破格だった。
今日の分と合わせて40ドルを支払うと、少しニコッと笑い、
「シェーシェ」
と笑ってくれた。おばさんは、李という名前の台湾出身の華僑らしい。
「シスコは初めてだろ? ケーブルカーにでも乗って街を見ておいで」
と市内観光を勧められた。
ケーブルカーの乗り場は、ホテルから歩いて10分くらいの場所にあった。しかし、6月というのに、朝は霧が出ているせいか、かなり肌寒いのだ。アメリカにきて初めてジャンパーを着込んで出かけることにする。シスコ市内は狭いので、交通機関が発達していて、ケーブルカーや市バス、地下鉄などが縦横無尽に街を走っていた。
ケーブルカーは、今は観光用として数路線が残されているに過ぎないが、今でも利用客の半分くらいは市民の足として利用されているようである。キップ売り場に行くと、5ドル払うと全交通機関1日乗り放題というのがあった。とにかくそれを買ってケーブルカーに飛び乗った。
街の雰囲気を見たかったので、車外に出て一番前の手すりに掴まった。レトロなこのケーブルカーは走り出して、ユニオン・スクエアの中央公園を過ぎると、強烈な勾配の坂をガタゴトと登り始める。車のない時代は、こんなに坂の多い街ではかなり重宝されたに違いない。
やがて、ケーブルカーの右手から漢字の看板が氾濫する町並みが見え始めた。シスコのチャイナタウンは、アメリカ国内では最大規模である。約25万人の中国人が住んでいて、英語を喋れなくても一生不自由しないそうだ。また、市場や露天商の賑わいを見れば、今までアメリカ旅行中に体験したことのないような生活の匂いがした。
ケーブルカーは、やがて狭い路地にまで入り込んだ。シスコの建物一つひとつは、古くて実にこじんまりとしていて、他の街には見られない古い街固有の趣きであった。
私は自分が映画の中にいるような気分で、楽しく盛り上がってきたので、鼻歌で「思い出のサンフランシスコ」を歌っていると、いつの間にか、乗客の真中でケーブルカーの操作をしている年季の入った機関士の爺さんも、みごとな美声で同じ曲を歌い始め、しまいには、他に同乗している車内の観光客10人位で大合唱になってしまった……。
第25回:霧の街サンフランシスコ その2