第23回:長距離バス
更新日2002/08/15
早朝、グレイハウンドのバス・ターミナルは、大きい荷物を持った客でごった返していた。バスで移動する客のほとんどは黒人やアジア人などの有色人種だった。皆、ラス・ベガスで余暇を過ごしたせいか、眠そうな疲れた表情をしている。
ベガス最後の思い出となったニーナとも会えなくなるのは少し寂しかったが、夜型の博打漬けの生活ともおさらばできると思えば気分もよかった。彼女は昨夜の飲みすぎで恐らくダウンしているのではないだろうか? 連絡先も聞いていないのだが、今度会う時には英語をマスターして、酒なしで口説いてみたい、と思う。
ギャンブルにも大敗して、この街には貯金をたくさん残してしまったが、不思議と未練も感じない。それどころか、きっと将来また帰ってくる気がした。10日余り過ごしたパワー溢れるこの街に底知れぬ魅力を感じずにはいられなかったのだ。
予定より2時間遅れの出発なのに、当たり前のようにグレイハウンド・バスのサンフランシスコ行きは、ゆっくりと動き出した。しかもドライバーも太った黒人のおばさんである…。
しかしこのバス、市内をグルグル回っているだけで、一向に高速道路に向かおうとしない。よく見ると、市内の要所要所にもバス乗り場があり、そこでも乗客や郵便物を拾って廻っている。この調子じゃ、シスコまでは今日中には無理かもとすぐに察したが、それは予想通りになった。
この広いアメリカで、わざわざバスに乗って旅行する奴が悪いのだ。自由で気ままなテキサス・レンジャーの長距離コンボイのビル爺さんと、警笛を派手に上げてアリゾナのツーソンからラスベガスに向けて威勢よく出発した時とは、対照的な状況であった。
車内は、暑い屋外とは反対に、エアコンが寒いぐらいガンガンに効いていた。そして、最後尾にトイレが付いているのだが、すでにその辺りは黒人のグループに占領されていて、トイレの使用許可をもらわなくては入れない理不尽な法律がこの短時間に成立してしまっている。彼らのモラルは非常に低く、常に巨大なラジカセからはラップミュージックが大音量で鳴らされていた。
そのうちに、休むために座席を少し倒すのにも彼らの許可が必要になった。それでも、乗っている客はまばらなので、私も席を2つ占領して睡眠を決めこむことにした。
長距離バスで旅行する日本人のバックパッカーも多いと聞くが、こんな状態ではなんと根気のいる旅行であろうか。恐ろしく気長な時間を費やして、北東に向かうに従い、あたりに緑が増えていくことに気がついた。
アメリカも乾いた南西部ばかり旅行してきた私にとって、緑のある風景がこんなに満たされるとは思いもしなかった。日本を飛び立ったとき、上空から見えた緑の景色を思い出す。あれから2ヶ月、アメリカにもずいぶん慣れてきたが、バイクでニューヨークまで行く予定のはずが、バスでシスコに向かっている。
アメリカ滞在のビザは、あと1ヶ月。資金が底を突いてしまった今、恐らくここが私の最終地になるのであろう。上陸後は、限りなく自由な2ヶ月を過ごしてきた私だったが、多少は焦る気持ちを隠せなかった。
ゆっくりとしたバスの旅が、私のアメリカに来た本来の目的や、今後の予定を考える時間を充分与えてくれたのだった。今回、一番の渡米の目的はアメリカ永住にあったはず。私には、もう後がないのだ。
「黒い海が見える!」
また西海岸に戻ってきたのだ。時計はすでに夜中の2時過ぎ。やがてバスは長い長い釣橋を渡り始めた。ベイブリッジであった。
55年前にできた全長が6Kmもあるこの橋は、半島であるサンフランシスコと本土のオークランドを結ぶ重要な橋なのだ。しかも、橋から見えるサンフランシスコの摩天楼の美しいこと。その夜景を見て感動のあまり体に震えが走った。そしてこの街が私の最後の正念場だと思った。
橋を渡り、いよいよシスコに上陸した。路面のマンホールの蓋からは水蒸気が上がっていて、街の作りが古いことをしのばせていた。建物を見るとロスの街よりも何となく歴史が感じられた。それもそのはず、シスコの歴史はスペイン統治時代の17世紀から始まるが、現在の街の規模になったのは1849年のゴールドラッシュまで遡るのだ。
心の中で「ネバー・ギブアップ!」と叫びながらバスを飛び降りる。
「寒いっ!」
街中に、うっすらと霧が立ち込めていていた。初夏の6月というのに、ラス・ベガスとは比べものにならないくらい寒かった。バスの長旅で痺れた両足をしっかりと踏みしめながら、一人、深夜のサンフランシスコの街に躍り出た。
第24回:霧の街サンフランシスコ その1