■拳銃稼業~西海岸修行編

中井クニヒコ
(なかい・くにひこ)


1966年大阪府生まれ。高校卒業後、陸上自衛隊中部方面隊第三師団入隊、レインジャー隊員陸士長で'90年除隊、その後米国に渡る。在米12年、射撃・銃器インストラクター。米国法人(株)デザート・シューティング・ツアー代表取締役。


第1回:日本脱出…南無八幡大菩薩
第2回:夢を紡ぎ出すマシーン
第3回:ストリート・ファイトの一夜
第4回:さらば、ロサンジェルス!その1
第5回:さらば、ロサンジェルス!その2
第6回:オーシャン・ハイウエイ
第7回:ビーチ・バレー三国同盟
第8回:沙漠の星空の下で
第9回: マシン・トラブル
第10回: アリゾナの夕焼け
第11回: 墓標の町にて
第12回:真昼の決闘!?

■更新予定日:毎週木曜日

第13回:さらばアリゾナ

更新日2002/06/06 


100キロ以上の大男を相手にしたアーム・レスリングは、まず相手の手首の力を潰す作戦であった。手首さえ自分の方に巻き込んでしまえば何とかなる。

が、始まった瞬間、細い幹にからみついた大蛇のような腕が、今までに体験したことのない強烈なパワーで、私の体を座っている椅子ごと手前に引きずり込んだのだ。

すでに、私の右手も右側のテーブルに付きそうになっている。何とか手首だけ返して、わずか数センチを持ちこたえている無残な状態になっている。
「カモン・ボーイッ!」
廻りから声がするが、ここまでくればなすすべもない。粘っても腕が折れるだけだ、という妥協感も手伝って、私はついに敗北を認めてしまった。

勝利を収めた白人の作業員は、「ナイス・ファイト」と私の肩をポンと叩いて、机の上の5ドルをヒョィとつかみポケットにしまい込んだ。米国人の見かけ倒しではない強靭な体力と食い物の差を改めて思い知った。ジョンは少々期待外れのような表情で私を見ていたが、私も笑ってごまかすしかなかった。

一旦ジョンの家へ帰り、冷房がきいた部屋で小1時間の昼寝をした。これがまた最高で、火照った体の疲れは十分癒される。目覚めてからも、しばらく喉の渇きが続いた。今日だけでもすでに3リットル以上の水を飲んでいたのだ。そして昼過ぎからの同じ道路工事も昨日のように無難に終わった。

こんな所で私は何をやっているのだろう? 納屋の下で寝袋に入りながら考えた。明日はバイクの修理が終わっているはず。そうすれば、すぐにこんな灼熱地獄のアリゾナを出て、東に向けて出発だ。私の最終目的地は、遥か東海岸のニューヨークなのだ。

翌日も朝7時から現場に出かけての道路工事。再び、焼けるアスファルトの匂いと灼熱の太陽との戦いである。3日目になるとさすがに仕事にも慣れてきて、もう何年もここで働いているような気になるから不思議である。その証拠に私の工事用ヘルメットには、しっかりジョンの字で「KUNI-JAPAN」とマジックで書かれている始末であった。

昨日と同じ'決闘カフェ'で昼食を摂り、昼休みにジョンの家に戻った。すると奥さんのスーは、朝バイク屋から電話があったという。

「さあ出発だ!」私の胸は高鳴る。いよいよツームストーンを出るのだ。
早速、ジョンがバイク屋に電話をしてくれたのだが、受話器から顔を離した彼が、私に真顔で告げた言葉は、私の期待を奈落の底へ突き落とした。
「$1500だ…」
ロスで値切って1300ドルで買ったバイクは、修理費がそれを上回ってしまったのである。私は躊躇してしばらく考えたが、なぜか大金を出してあのバイクを引き取る気にはなれない。

修理費を捻出することで、ニューヨークまでの今後の資金が底をつくということもあったが、一番の理由は、なんとなくもったいない気がしたからである。このことで後で散々後悔することになるが、今は体ひとつの方が楽のような気がしたのだ。

そんな気持ちを理解してくれたのかは分らないが、
「金ならウチでしばらく働けば何とかなる! 払えよ」
と説得してくるジョンに、そのままバイクを引き取ってくれないか交渉してもらうことにした。ここでしばらく働くのもいいが、これ以上ジョン家に迷惑をかけたら悪いと考えた判断であった。

ジョンはバイク屋と話をつけてくれたようで、私のXTはバイク屋の方で処分するになった。そしてバイクによる米国大陸横断の夢は呆気なく終了してしまった。明日の朝にはここを出て行くことをジョンに告げた。

これでよかったのだろうか? 昼からの仕事でツルハシを振りながら色々と考えたが、あのバイクとは縁がなかったことを自分に言い聞かせた。アリゾナの大西部でのんびりと暮らすのも悪くはないが、当時の若い自分には刺激があまりにも少なすぎた。

また、飛行機でニューヨークまで行くのは一番簡単な方法であるが、それでは意味がないことは日本を出た時から自明のことだ。バイクを失っても、金がなくとも、米国を自由に見聞する時間だけは自由にあるのだから。

翌朝の土曜日、私はジョンのトラックで、ここから一番近い都会であるツーソンまで送ってもらうことになった。ジョンと二人だけでの出発のはずが、なぜか息子のシェーンと奥さんのスーも加わって4人で出発することになった。

シェーンと私は、トラックの荷台に乗った。3日間であったが、夏時間の長い夕刻に一緒にキャッチボールをして遊んだ彼には、私が身近な存在になったようだ。

米国の田舎の子供たちは、歩いて行ける距離に友人がいないので可哀想である。しきりに私に話しかけてくるので、風の音でよく聞こえなかったが、頷いて答えた。しっかりとタバコを3本ほどせびられたが、最後なので仕方なく手渡す。タバコをくれる悪友がいなくなるためか、どことなく寂しそうに見える。

スーは、恐らく裏で飼っていたニワトリであろうと思われる、手作りチキン・サンドイッチを作ってくれた。そして、運転席から流れるのは相変わらずジョンのハード・ロックで、これが慣れてくるとまた、サボテンの生える砂漠によく似合った。しかし、これも今日が聞き納めだ。

朝10時頃にツーソンのバス・ターミナルに到着した私達は、ここでお別れである。別れ際にジョンは、
「これは、3日間のバイト代だ。取っとけ!」
と私のポケットに5ドルや20ドルの混じった札束をねじ込まれた。私が宿や食事で世話になったことを告げ、断ろうとしたら、
「ニュー・オーリンズまでは、送っていけねえからよ。またな」と凄い力で手を押さえられた。すかさずスーも、
「暑いからサンドイッチ早く食べるのよ」と言い残し、3人は車を出発させた。

やがてシボレーのトラックのロック・ミュージックも遠く離れて行ったが、荷台の上からこちらに手を振るシェーンの姿は、長い間見えていた。

 

 

第14回:キャラバン・ターミナル