第549回:828年前の悲劇 - めかり絶景バス -
関門海峡めかり駅は賑わっていた。大勢ではないけれど観光客や職員が手を振って、トロッコ列車を出迎えてくれた。マイカーで訪れる観光客にとって、街中の門司港よりも、こちらの方が拠点にしやすいかもしれない。ちょっと調べてみたら、門司港エリアに散在する駐車場はどこも有料。めかり公園の駐車場は無料でしかも140台の規模であった。門司港トロッコ列車は、マイカーで門司港を観光する人の交通手段とアトラクションの役割を兼ねているらしい。
関門海峡めかり駅に到着。
この先も線路があるけれど列車はここまで
駅前に観光バスが停まっている。これが“めかり絶景バス”だ。料金は300円。クローバーきっぷに付いてきた50円割引券を提示して乗ってみた。“めかり絶景バス”は、もともと西鉄バスが運営していた。しかし、2012年に運行を終了。今年から建機レンタル業のアクティオが運行している。路線バスではなく企画旅行扱いで、アクティオ北九州営業所が旅行業者として登録しているようだ。[*]
乗客は10人ちょっとで、すべて年配の方であった。歴史好きの方々だろうと思う。ガイドのおじさんが乗ってコースを説明する。そこで私は知った。壇ノ浦はここだったか、と。
駅前に観光客の姿。奧に“めかり絶景バス”が停まっている
私は文系だと思っている。しかし、小学校の頃から歴史が苦手だ。算数や理科や国語など、考える系統の科目は楽しかったけれど、ただ年号を覚えるだけの授業が苦痛だった。覚えるだけなら漢字の読み書きや九九や地理も同じ。ただし、こちらは道具として使えるから学び甲斐がある。歴史を知っても、なにか役に立つだろうか。唯一、覚えた年号は「いいくに作ろう鎌倉幕府」だけど、最近は1192年ではないらしい。もうダメだ。
アクティオが運行する“めかり絶景バス”
団体ツアーバスという扱いらしい
そんなていたらくだから、旅先で歴史上の重要地点に出くわすと無知を思い知らされる。ここ、関門海峡は源氏と平家が戦った壇ノ浦と、武蔵と小次郎が戦った巌流島があるそうだ。そういえば聞いたことがある。そして、ここだったかと思う。ほとんどの観光客は、こうした歴史上の名所として関門海峡を訪れる。私のように電車に乗るついでに立ち寄ったりはしないはずだ。こんな時、私は開き直って、新鮮な気持ちで歴史に向き合えるから楽しい、と考える。
バスは海沿いを走り、まずは低い位置から関門海峡を眺める。500トン以上の大型船が、1年間で5万隻も通る海の街道だ。中国や韓国と横浜、川崎、東京など太平洋側を結ぶ船舶は、関門海峡と瀬戸内海を通ると、鹿児島方面を通るよりも速い。そして、地元の小型船舶も含めると、1日当たり500隻以上も通るそうだ。いくつもの船が行き交う風景を期待したけれど、今日は小型の船が1隻だけだ。大型連休で貨物線の動きがないか、潮目の代わり時かもしれない。
関門海峡は波も通行量も穏やか
関門海峡は狭い上に、潮の満ち引きによって1日4回も潮流が変わるという。その潮流が壇ノ浦の戦いのカギとなった。しかし、車窓から眺める海は、さざ波を白くまぶすだけであった。ここで1,000艘以上の船が戦ったとは想像もできない。
関門橋の威容を見上げて、バスは海から離れて山道を登っていく。かなり急な坂道である。森の中を通り抜け、めかり公園の山頂に出た。ここにも公園があるけれどバスは通過。門司城跡をぐるりと回って第二展望台に停まった。高いところから海峡を望む場所だ。ここでガイドおじさんの話を聞く。
関門橋を見上げる。1973年開通、長さ1,068m
門司城は平清盛の四男、平知盛が築いた城という。京を追われた平家の知盛は、まず四国の屋島、次いで関門海峡の西の彦島を拠点として源氏の追討を跳ね返した。門司城は彦島の前衛に当たる位置である。時は流れ、戦国時代は拠点の奪い合いとなったけれど、天下太平の江戸時代に廃城となる。明治時代に関門海峡周辺は帝国海軍の要塞地域となり、門司城の遺構は少ないという。屋島は3月に、“ことでん”で訪れたばかりである。最近の私の旅は、平家の道筋を辿っていた。歴史好き、平家ロマンを好む人なら羨むような行程かもしれない。
バスの中で壇ノ浦の戦いの解説を聞く
幼い安徳天皇を連れて都落ちした平家を追って、源頼朝の弟、義仲の3万騎が山陽道を西進。しかし関門海峡を制していた平知盛に押し止められる。一方、源義経が四国の屋島を奇襲し、これを足がかりとして瀬戸内海を西へ攻略。平家軍は彦島に籠もった。彦島は現在の山口県、下関側だ。陸路の義仲も船を得て九州に上陸、関門海峡で平家軍を挟んだ。
義経軍は840艘の水軍を編成し、平家壊滅へ向かった。迎え撃つ平家水軍は500艘。これを三隊に分けた。関門海峡の奧に源水軍を引き寄せ、包囲戦を挑む。しかし義仲軍は門司側にいて、平家軍に矢を放ち退路を断った。平家水軍は源氏水軍を破るしかない。
門司城跡
序盤、中盤は平家軍が有利だったという。平家軍は潮の流れを受けて勢いづく。源水軍に接近し、義経を討ち取ろうとする。そこで義経は平家の船頭を狙い撃つよう指示する。自らも平家の船に乗り移り、船頭を次々に斬り殺した。この時代まで、兵隊以外の船頭などを殺すとは戦の作法に反していた。義経の卑怯と語り継がれることになる。
潮目が変わり、潮流が西へ向かうと源水軍が有利になる。平家に付いた300艘の水軍が源に寝返ったとも言われている。平家の猛将、教経は、最後に源義経と相打ちを覚悟で対峙。しかし義経は船に飛び移り逃げた。これが後に語り継がれる“義経の八艘飛び”である。
第二展望公園は関門橋の上
平家軍は壊滅。平家が奉じた安徳天皇と付きの者たちは船から身を投げた。平家は武将も女子供も入水する。こうして源平合戦は終わる。ただし、軍功を上げたはずの源義経は、その後、後白河法皇の元で任官する。しかしこれが源頼朝の逆鱗に触れ、ついには反抗した義経を頼朝が討。頼朝は武家政権を確立し、時代は鎌倉時代へ移っていく。
そもそも源平合戦の始まりは、後白河法皇に取り入った平清盛が、比叡山の処遇をきっかけに対立したからだ。清盛は反乱を起こし、結果として平清盛の孫、幼い安徳天皇が即位した。しかし、当時は平清盛から信頼されていた源頼政が、清盛の横暴を許せなかった。源頼政は後白河天皇の皇子の以仁王と通じて、逆賊平氏打倒のために挙兵した。いや、安徳天皇が即位しているから、今度は源氏側の反乱とも言えた。
橋の向こうに巌流島が見える。平たい
源氏側には反平家側の寺社勢力や地方豪族も同調した。また、源氏、平家とも一族一枚岩ではなく、源氏同士、平家同士の争いもあり混乱を極めた。源平合戦は治承・寿永の乱の重要な場面のひとつに過ぎないとも言われている。
……というような話を、旅から帰って調べ、写真を眺めて旅を思い出している。旅すれば歴史に興味がわく。年号の丸暗記より、物語を楽しめる。
源頼政の挙兵から始まる6年にも及ぶ戦いが、ここ壇ノ浦で終わった。いまから828年も昔の話である。壇ノ浦の戦いは、逆賊を制した源氏の“勝利の物語”ではなく、平家の“悲しい結末”が語り継がれている。その悲劇の海はただ青く、いまも潮目の反転を繰り返している。
“義経の八艘飛び”の絵がある。
源氏の旗が白、平家の旗が紅で、紅白戦の由来は源平合戦とのこと
[*]アクティオのめかり絶景バスも2013年で定期運行を終了。
2014年は多客期のみ復活したとのこと。2015年は運行していない。
-…つづく
第549回の行程地図
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