第527回:山頭火のさびしさ - 日南線 南郷-志布志 -
南郷駅12時11分発の志布志行き。キハ40形気動車の単行であった。路面電車のように、1台の車両の両端に運転台がある。キハ40形という形式名の、一の位の0がそれを示す記号だ。同じ形式でも、片側のみ運転台があり、2両以上で使う車両はキハ47形という。日南線の末端区間はお客さんが少ないから、1両で十分という判断だろう。
南郷発志布志行1935D、意外とお客さんがいる
南郷から乗る客は私たちだけかと思っていた。実際は親子連れなど10人ほどがホームに並んだ。観光客ではなく、地元の人々のようであった。平日の日中ではあるけれど、今日は4月1日。春休みである。新入学や新生活の準備で買い物に出る人もいるようだ。この志布志行きは宮崎駅を10時30分に出発し"海幸山幸"を追ってきた。車内のお客さんもほどほどで、座席はすべて埋まった。終点の志布志市は人口3万人以上の都市で、国際貿易港もある。宮崎と結ぶ路線なら、もう少しお客さんが多くても良さそうな気もする。
キハ40系は国鉄時代の古い車両である。私の高校時代は新車だったから、車齢はもう30年以上だろうか。現在も全国的によく見られる。もともと壊れにくく、壊れても修理がきく設計のようだ。質実剛健の時代を反映している。壊れたら直す、使いにくかったら改造する。職人気質の作り方、使われ方。傷みはなく、古さより懐かしさを感じる。真四角なボックスシートは、私にとってはゆりかごのように感じる。高校時代、ひとり旅を始めた頃によく乗った車両だ。
大隅半島を横断する
気動車は南郷を出ると大隅半島を横断。南郷川をさかのぼり、ひたすら山道を行く。田畑は見えるけれど人家は少ない。田舎のローカル線では、集落があるたびに駅が作られると思う。つまり、駅が少なければ集落も少ない。宮崎と日南、串間、志布志を結ぶ目的の、おそらくは農産物や畜産物の貨物輸送を目的とした路線か。それでも榎原駅を過ぎると線路際に民家が集まる景色があった。黒い瓦屋根が渋い光を放っている。宿場町の風情である。
形の良い山が見えた
山道を通り抜けて視野が広がり、日向大東駅に着いた。ここからは福島川に沿って下流へと進む。河口の町は串間市。人口約2万人。南国の水産物、果物などが名産とのこと。串間駅でまとまった降車客がいて、私と風ちゃんは、それぞれ別のボックスシートに移動した。お互いに干渉しない一人旅気分である。
国鉄時代の気動車に乗り、誰からも干渉されずに車窓風景を眺める。やっと私の旅らしくなった。真四角なゆりかごの効果もあって、気持ちが落ち着いている。"海幸山幸"は楽しかった。しかし、観光列車はハレの場というか、私にはすこし緊張する場である。観光列車だろうと古い気動車だろうと、"列車に乗って遊ぶ"という行為は同じ。観光列車は「さあ遊んでください、あれもこれもどうぞ」と、遊ばせてくれる。そう、遊ばされるのだ。遊ばなくてはいけない、という気分になる。
屋根瓦が見事に揃う
もちろん、遊ばされると承知で調子に乗れば楽しい。しかし、それだけでは少々疲れる。「さあ遊ぼう」より「ずっとそこにいていいよ」のほうが居心地が良いのだ。緊張感よりやすらぎが大切。少年時代と中年以降の口説き方の違いのような話になってきた。
串間の市街地の終わりが福島今町駅。たぶん海側と思われる方向は防風林と思わしき樹木が並ぶ。ここは台風が通る地域である。次の駅は福島高松。東北と四国が混ざったような駅名だ。おそらく地名が高松で、香川県と混同しないように福島を付けた。旧国名ではなく、地域名の福島を冠するとは珍しい。ようやく車窓から海を望める。リアス式海岸地域が終わりつつあるようで、小さな砂浜も増えてきた。
串間の海
遠くに見える街路樹は国道220号線である。樹木は幹の上のほうだけ葉が茂り、中位から下は丸裸だ。ソテツのような南国の樹木だろう。その国道が近づいて、気動車は海岸沿いを走る。国道より高いところを通っているから眺望は良い。しかし景色はたびたび樹木に遮られた。国道が頭上を越えていき、線路のほうが海に近くなる。しかしはやり樹木が海を遮っていた。白砂青松の海岸のようである。
志布志駅付近の海岸
気動車は内陸に寄り、前川を渡って市街地に入る。国際港都市の志布志市街だ。もう少し走るかな、と思ったところで志布志駅に到着した。ホーム1本だけ、隣にホームのない線路。敷地境界を示すフェンスまでは遠いから、かなり構内は広かっただろう。この広さは志布志駅から3方向へ線路が延びていた頃を物語る。
志布志駅到着
しかし私にとっては、始めて訪問した当時を思い出す手がかりはなかった。志布志線が都城へ向かった線路も、大隅線が国分へ向かった線路もわからない。ホームの先の改札口を通り抜けると、駅舎は新しい建物のようであった。そもそも志布志線や大隅線が通り抜けていたから、現在のように駅舎とホームが直角に位置する構造ではなかったはずだ。二人の海彦のうち、一人は浦島太郎になった。もう一人は初訪問のはずである。
志布志線のあゆみ。鉄道公園完成の文字を見過ごした
駅前ロータリーは広い。都心の小学校の校庭くらいはありそうだ。ぐるりと回ると、記念碑を二つ見つけた。一つは種田山頭火の句碑。「一きれの雲もない空のさびしさまさる」とある。山頭火はこの地に来て、快晴の空をさびしいと詠った。俳句俳人についてはよく知らないけれど、誰もが清々しく思う快晴をさびしいという感性は独特のようだけど、さびしいと清々しいは通じる感情かもしれない。
志あふれるまち。
「志布志市志布志町志布志の志布志市役所志布志支所」
という地名が話題になった
もうひとつの記念碑は「志布志線古江線 大水害復旧記念碑」とあった。古江線とはのちに大隅線と改称され、廃止された路線である。調べてみると、古江線が全通した1938(昭和13)年に大水害があったという。線路を失う災害と復旧記念の碑は、大隅線が存在した証でもあった。
線路は廃止され、広い道路が整備されて、復旧の記念碑だけが残っている。昭和初期の鉄道の役割と、昭和後期の地方鉄道の衰退を思わずにいられない。町はすっきりと整備されたけど、線路がなくてさびしい。ああ、山頭火のさびしさの感覚はこれかな、と思った。
志布志駅 志を秘めたかわいらしさ
|