第642回:牛飯と蕎麦 - 木次線 木次~出雲横田 -
木次発11時58分の備後落合行きは混んでいた。起点の宍道から終点の備後落合まで直通する唯一の列車であり、しかも宍道から乗る人にとっては木次から先へ行く始発列車である。2両編成でクロスシート付き車両は満席。私たちはロングシートのみの車両に乗る。木次で降りる人と入れ替わりに、なんとか二人分の座席を見つけた。
「景色が見づらいですね……」とN氏が申し訳なさそうに言う。
「背中の窓ではなく、反対側の景色を見られますから」と応える。
私たちは進行方向左側に座っているから、右側の景色を見られる。地図によると右の景色のほうが開けている。この席は悪くない。

日登駅。木造駅舎が残る
木次線の運行本数は少なくて、下り列車は宍道から木次までが10本、木次から出雲横田までが6本、出雲横田から備後落合までは3本しかない。上り列車もほぼ同数だ。観光シーズンになると若干の区間延長があり、奥出雲おろち号というトロッコ列車が走る。それに乗りたいと思っていたけれど、4月から11月までの運行だ。10日ほど早かった。惜しい。
惜しいことはもうひとつ。この乗車はN氏のプランで言うところの“視察”であり、私たちは三井野原で降りることになっている。未乗路線だし、二駅先の終点、備後落合まで行きたい。打ち合わせの時に言ってみた気がするけれど、スケジュールの都合がある。一人で乗って帰ってくるなら行きたいけれど、道楽にN氏を巻き込むわけにもいかない。今日は視察である。仕事である。気持ちを引き締める。

里山の風景になった
列車は木次の市街地を眺めつつ速度を上げる。斐伊川とは離れて支流に沿う地形だ。谷を通り抜けて開けたところに日登駅。縁起の良い名前だ。そして木造駅舎の佇まいが良い。ホーム側しか見ていないけれど、柱と梁がしっかりしている。白壁に黒板のような色の駅名標。飾り気のない景色がある。
ここから谷が細くなった。線路と国道が寄り添っている。民家が川向こうの道路寄りという景色は三江線と通じる。もっとも川幅が狭いから、駅の利用に難はないだろう。
「次の下久野駅には駅ナカがあります」とN氏。単線路線の小さな駅で、駅ナカとは何かと言えば、駅ナカ農園だった。周囲に畑があるから、わざわざ駅でなぜ、と思うけれど、観光シーズンに収穫体験会を実施し、世話人同士が駅舎で集うそうだ。愛される駅、か。

出雲八代駅は改札も木製
出雲八代駅も日登駅に似た駅舎がある。事務室の入り口はアルミサッシの引き戸。しかし、改札口の手すりなどが木製だ。日登駅は鉄パイプだったから、木造度はこちらが高い。松本清張の『砂の器』が1974年に映画化されたとき、亀嵩駅として撮影に使われたからだろうか。
長いトンネルを通り抜けると、列車はさらに高度を上げていた。見晴らしの良い路線だ。晴天のため、強い日差しが向かいの窓から差し込んでくる。ありがたいことに、誰もロールカーテンを降ろさずに景色を見ている。出雲三成駅に着いた。日当たりが良いせいか、桜の花がほころびる。
駅名標の隣に大国主命の絵が掛かっていた。木次線の木次駅から三井野原駅までの各駅に愛称が付けられているそうだ。木次駅は八岐大蛇、日登駅は素戔嗚尊(スサノオノミコト)、下久野駅は動動(アヨアヨ)という鬼の名前。出雲八代駅は手摩乳(テナヅチ)。そしてここは大国主命。

出雲三成駅は近代的
出雲三成駅には近代的な駅舎がある。仁多特産市というポスターがあるから、観光施設になっているようだ。ホームに現れた人とN氏が挨拶している。地域振興課長だから知り合いが多いのだな、と思ったら、お弁当の差し入れだった。私のために、いや、視察のために手配してくれたのだ。仁多牛弁当、とある。
「ちょっとこの席では食べづらいでしょうけど……」
「そうですねぇ……」と言いつつ、しばらく我慢したけれど、すき焼き風の香りが漏れてくる。我慢できず包みを開いた。12時半を過ぎている。景色を見たいが空腹には勝てない。そして美味い。

仁多牛と仁多米の牛丼弁当
仁多牛は奥出雲町の特産という。仁多米はコシヒカリ。列車は雲南市を過ぎて仁多郡奥出雲町であった。N氏、管轄外。しかしI氏は奥出雲町の人だった。木次線問題は、雲南市と奥出雲町の喫緊の課題であり、共同して盛り上げたいという趣旨であった。
景色をチラチラと眺めつつ、牛めしを頬張るうちに亀嵩駅に到着する。松本清張の小説『砂の器』で、犯人にゆかりのある駅として登場したことで有名になった。そしてもうひとつ、駅舎が蕎麦屋として使われていることでも有名だ。ただし、蕎麦屋に作り替えてしまったことが災いし、映画化されたときにロケに使えず、先ほどの出雲八代駅がロケに使われた。再訪するときは、ここの蕎麦も食べたい。

小説と蕎麦で知られる亀嵩駅
亀嵩を発車すると、右に曲がって森の中、そしてトンネルに入る。トンネルを出てはカーブし、またトンネル。カーブが連続し、線路の山越えの難しさを示す。木次線は宍道から木次までは簸上鉄道として1916年に開業しその先には手を付けられなかった。

斐伊川の渓流が現れた
木次から出雲三成までが官営鉄道として1932年に開業し、1934年に八川へ延伸している。この年、簸上鉄道が国有化されて、全線が木次線となった。備後落合への延伸、全通は3年後の1937年。日中戦争が夏に始まり、その冬という時期である。木次線は陰陽連絡線として期待されていたと言えるだろう。

出雲横田駅。列車分割作業がある
視界が開けた。上り続けたディーゼルカーが、たどり着いたという足取りでホームに停まる。出雲横田駅だ。ここは木次線の拠点駅のひとつ。降車客も多い。ここまで2両編成でやってきた列車は、ここで1両を切り離す。そのため停車時間が長いから、列車を降りて駅舎を見物する。小ぶりながら社殿づくりの佇まいで、出雲大社のようなしめ縄もある。この建物は開業時以来。ただし、しめ縄は新しく、手入れも行き届いていた。鉄道に対する崇拝に近い思いを感じる。

出雲横田駅の社殿駅舎
列車に戻ると、ここでもN氏が出雲蕎麦を手配していた。視察と言うより接待の域である。杉山さんなら食べられるでしょう、と私の腹をチラ見して言う。なんと、肥満人はすべて大食漢とでも思われるか。その通りだ。ありがたくいただこう。亀嵩の蕎麦を見送ったばかりである。
ロングシートで他の客の目が気になるけれど、これは視察だ。仕事だ。食べなくてはいけないと自分に言い訳をする。しかしスマートなN氏は自分のぶんに手を出さない。ずるい。共犯になってほしい。

蕎麦もおいしかった
-…つづく
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