第627回:雪見コーヒー - こまち14号 1 -
鉄道紀行の古典『阿房列車』で、作者の内田百閒先生は、用事がないけれど汽車に乗るから楽しいのであって、帰りの汽車は帰るという用事があるから楽しくない、という名言を残された。本当にその通りで、帰りの列車は楽しくない。特に夜の帰りの新幹線は辛い。しかし、そこで諦めたら負けた気がする。楽しく変える方法もあるはずだ。
新青森から秋田回りにした理由は、帰り道を楽しむためだ。秋田新幹線“こまち”に乗っていなかった。奥羽本線も田沢湖線も乗っているから、未乗路線ではないけれど、秋田新幹線としては乗っていない。ここにすこしモヤモヤがあって、乗ればスッキリする。だから明るいうちに乗りたい。男鹿線や秋田内陸線へ寄り道したい気持ちもあるけれど、今夜からの仕事に差し支える。
秋田駅、跨線橋はミニ博物館
“こまち12号”は09時12分発。およそ30分後だ。駅前散歩の時間はない。ひとまず跨線橋へ上がってみると、鉄道関連の展示物が並んでいた。E6系やD51形蒸気機関車の模型、D51形の部品の実物もある。前面ボイラー扉は“煙室戸”というらしい。ブレーキ弁はレバーの下の取り付け部が意外と長い。
秋田駅の駅名の由来を記した看板があった。日本書紀に記された齶田浦(あぎたうら)が由来だという。齶の字は歯茎を示す。なるほどアゴと音が似ている。それが秋田になった理由は奈良時代に朝廷が発布した好字令だろうか。江戸時代に久保田藩となったけれど、明治の廃藩置県で秋田に戻り、明治35年に秋田県が開業した。
改札口に入線時刻が表示された
見物しながら改札口までたどり着いた。発車案内を見ると“こまち14号”の発車時刻の下に“入線時刻08時55分”と表示されている。入線時刻の案内とは珍しい。列車ごとに改札を始めていた時代の名残か、この時刻より後にホームに行けば列車に入れる。寒いホームで待たなくていいよ、という意図だろう。少し早いけど、私も12番ホームに降りた。
売店で駅弁を買う。菓子の棚にババヘラアメを発見した。秋田名物ババヘラのアメ。店員さんに聞くと、秋田名物のアイスクリームだという。おばさんがヘラで盛り付けるからババヘラ。イチゴ味とバナナ味を重ねるそうだ。なるほど。イチゴ味とバナナ味なら、それぞれ別のアメを舐めたいけれど、一緒にしないとババヘラにならない。
701系、ピンクの帯の上に紺色が標準軌仕様の印
駅構内を見渡すと、銀色車体にピンクの帯を巻いた通勤電車が多い。701系電車だ。この電車は在来線用と標準軌用がある。田沢湖線が秋田新幹線直通向けに標準軌へ改造されたため、普通列車用に作られた。だから、奥羽本線用と田沢湖線用では、ピンクの帯の上、細い飾り帯の色が違う。留置線に止まっている701系はすべて田沢湖線用。秋田新幹線ホームにも1編成が止まっている。回送表示だからお客さんは乗れない。車庫が秋田にあって、田沢湖線の分岐駅の大曲まで出勤するらしい。
いなほが去り、こまちが来たる
在来線ホームからクリーム色の特急電車が出発した。あれは特急“いなほ”だ。常磐線で特急“ひたち”として活躍した電車を改装して、いまは北国で走っている。転勤族である。もう古巣には戻らないだろう。電車のやりくりは大変だなと走り去る方向を眺めていたら、その隣の線路に真っ赤な電車が現れ、こちらに近づいてくる。私が乗る列車、こまち14号。E6系電車だ。唇を突き出した鳥に見える。
こまち14号、E6系
先頭車は鼻筋が通っていて、赤い化粧も若々しい。今どきの女の子だ。先代の“こまち”はふっくらとして、美人画のようだった。どちらが好きと比べては失礼かと思いつつ、先代にはたくましい印象があった。4年前の夜、奥羽本線で701系の各駅停車に乗っていたら、E3系に追い越された。
どちらも同じ向きで走行中だったから、相対速度は小さい。ゆっこりと、生白い肌を輝かせながら“こまち”は去った。堂々かつ妖艶。夢を見ているような風景だった。あっちに乗りたいな、と思っているうちに機会をなくした。E6系も側面は白く大きく見える。同じ白でも、E3系は割烹着。E6系は看護師の白衣。うーん、どっちもいいな。
この角度が好き
私の座席は17号車8番のD。7両編成だけど17号車。盛岡で連結する“はやぶさ”が1号車から10号車まで。それにつづいて11号車から17号車までが“こまち”である。先頭車だけど、座席は後ろ向きだ。次の大曲で進行方向が変わるから、あらかじめ向きを変えている。
理屈ではわかっているけれど、走り出すとやっぱり違和感がある。30分も走るから、前向きに直そうかと思ったけれど、前席、いや後席にお客さんがいる。声をかけて転換して、また大曲で声をかけて、うん、それはめんどうだ。このままでいい。
奥羽山脈も春近し
特急“つがる”の車窓は薄曇りに朝日が射していた。日が昇って秋田は快晴だ。雪もすっかり溶けている。遠くに奥羽山脈が見えて、その山肌の雪も少ない。先頭車の後ろ向きに乗っているから、後部の車両の動きで列車の動きがわかる。こまち14号は大きくカーブして、奥羽山脈へ向けて進路を変えた。
和田駅に停車する。時刻表では通過駅である。なにかと思ったら、下りの“こまち”が来た。時刻表を開く。仙台発の“こまち95号”だ。「車内サービスはありません」の但し書きがある。この列車は秋田で折り返して上り“こまち16号”になるらしい。仙台の車両基地から回送するついでに設定された列車のようだ。
雪見コーヒー、贅沢な時間
もう雪景色とはお別れかと思ったら、辺り一面の雪景色に変わった。街は丁寧に除雪されていたらしい。奥羽山脈を越える時は、もっと雪深いだろう。この冬、今日が最後の雪景色かもしれない。
車内販売が来た。ホットコーヒーをいただく。雪見酒ならぬ雪見コーヒーだ。少年の頃の旅は小遣いが少なくて、缶コーヒーばかり飲んでいた。実はいまでも、車内販売は贅沢な気がする。それでも、熱いコーヒーを車内で飲めるうれしさは何物にも代えがたい。ICカード乗車券で精算したら、なんだかお金を使った気がしない。
紙コップにプラスチックのキャップが付いている。少し開けてみた。いい香りに包まれる。この香り。この景色。帰り道だけど、旅は続いていた。熱いだろうと、恐る恐るすすってみる。やっぱり熱い。少しずつ、香りが喉へ落ちていく。そういえば、昨夜から冷たいものばかり食べていた。
田沢湖線が近づいてきた
車内放送が大曲到着を告げた。車窓右手、単線が近づいてくる。標準軌の田沢湖線だ。こちらの線路と並び、しかし合流せずに大曲駅に到着した。同じホームの反対側に“こまち1号”が停車していた。
秋田駅よりホームにお客さんの姿が多いようだ。かつての大曲市は市町村合併で大仙市になった。人口約8万人。秋田市の約4分の1である。時刻は09時46分。出勤して、ひと仕事終えてから出張に出かける。そんな時間かもしれなかった。
大曲着、こまち1号と並ぶ
-…つづく
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