第301回:流行り歌に寄せて No.106 「新妻に捧げる歌」~昭和39年(1964年)
「サザエさん サザエさん サザエさんって どんな人 そりゃもう美人で(そりゃもう)しとやかで 朗らかすぎて 上品で 親孝行で 親切で ラララでパッパパ パッパパでラララ」
私がまず最初に思い浮かべる江利チエミは、何と言ってもテレビでサザエさんを演じていた元気印の姿である。テレビドラマの実写版としては初めての『サザエさん』(後に何人かの女優によって演じられた)は今回ご紹介する『新妻に捧げる歌』の翌年の昭和40年からTBS系列で放映された。
長野県の小学生だった私の家庭では、当時信濃毎日新聞を購読しており、朝日新聞の連載漫画だった『サザエさん』を一度も見たことがなかったため、彼女の特殊な髪型が随分と奇異に感じられたものだ。あの頃、朝日の購読者だった人々にとってはすんなりと受け入れられたのだろうか。
マスオさんが川崎敬三、波平が森川信、フネが清川虹子で、ワカメ役はマーブルチョコレートの上原ゆかりだった。とにかく明るいサザエさんが自由奔放に動き回るという、エネルギッシュな作品。江利チエミは、実に幸せそうに演じていた。
私は一度も観たことはないが、江利チエミの『サザエさん』は、実は映画の方でずっと以前から上映されており、第1回目は昭和31年、その後シリーズとなって全10回分も製作されているそうである。こちらも彼女の大暴れする姿が、スクリーンいっぱいに繰り広げられていたと聞いたことがある。
だから、当時私は江利チエミという人は、能天気と言えるほど、あくまで健やかで伸びやかな人だと思っていた。実はそうでもない来し方であることを、後になって知るようになる。
「新妻に捧げる歌」 中村メイコ:作詞 神津善行:作曲 江利チエミ:歌
1.
幸せを もとめて 二人の心は
よりそい むすびあう 愛のともしび
悲しみを なぐさめ よろこびを わかちあい
二人で歌う 愛の歌 ラララ ラララ
2.
幸せを 夢みて 二人の心は
手をとり ふれあって 愛のゆりかご
悲しみは ひそやかに 喜びは おおらかに
二人で歌う 愛の歌 ラララ ラララ
彼女はご存知の通り、東映映画にゲスト出演したことが縁となり、高倉健と結婚している。昭和34年、チエミが22歳、健さんが28歳の年である。『新妻に捧げる歌』はその5年後の録音だから、妻として既に先輩となっていたチエミが、新しく妻となる人々に送るエールのような曲だった。
作詞、作曲の中村メイコ、神津善行の夫妻も30歳、32歳とまだ若かった。希望に満ち、おおらかに歌い上げられるこの曲は、発売後まもなくから、各地の結婚式場で実際に歌われたり、BGMとして使われたりと、たいへんな人気だったと言う。
デビュー以来、アメリカン・ソングのコピーを数多く歌い、その後は日本の民謡や音頭、さのさ、都々逸などを歌い続けていたチエミにとって、『新妻に捧げる歌』は新しいスタイルと言える曲だった。
この曲を朗々と歌い上げるチエミだが、曲を出す2年前には、健さんとの間に授かった子どもを、当時で言う妊娠中毒症にかかったために中絶を余儀なくされている。その悲しみを越えて、彼女は熱唱したのだと思う。
しかし、さらに大きく暗い影が二人を覆っていく。この曲がヒットした頃、チエミの異父姉が、夫と別れて三人の子どもを連れて上京する。そして二人に窮状を訴え、自分が住み込みの家政婦兼チエミの付き人として働かせて欲しいと懇願してきたのである。
二人はこの依頼を快諾し、自分たちの庭に離れを作って子どもと共に住まわせ、高給で彼女を雇うことにした。しかし、異父姉はここから着々と、姉妹の境遇の違いによる逆恨みから、幸せな夫婦を奈落の底に落とす画策を始めることになる。
そして、着実に計画は実行され、夫婦の預金、不動産などの財産のほとんどを奪い、卑劣な手段で誹謗、中傷を繰り返して二人の心の間に溝を作り、ついには離婚に追いやってしまう。離婚は、自分の身内によりこれ以上健さんに迷惑がかけられないという、チエミの側からの申し出だったと言う。
チエミはその後異父姉を告訴し、4億円とも言われた借財を、自ら地方営業などを地道にこなすことで完済する。姉からの堪え難い仕打ちに会い、それによりかけがえのない人を失うという絶望の淵から、ひとりで這い上がったのである。つくづく強い人だと、私は心から敬服している。
『新妻に捧げる歌』から10年後に『酒場にて』が世に出される。
「好きでお酒を 飲んじゃいないわ 家にひとり帰る時が こわい私よ」
10年の間に、この人はどれだけ重く苦しい時間を味わったことだろう。それを思うとき、私にとって『新妻に捧げる歌』は曲調とは裏腹に、まるで不幸の序章のように、あまりにも哀しく聞こえるのである。
-…つづく
第302回:流行り歌に寄せて
No.107 「ごめんねチコちゃん」? 昭和39年(1964年)
|