第257回:流行り歌に寄せて No.67 「雨に咲く花」~昭和35年(1960年)
今回は「三人ひろし」の二人目、井上ひろしの登場である。背が高く甘いフェイスで、女性に人気のある歌手だった。私が保育園児で、長野県・上諏訪で長屋住まいをしていた頃、近くに住んでいた高校生のお姉さんが、井上ひろしの大ファンだった。
私の拙い記憶によれば、彼女は当時の『平凡』『明星』『近代映画』などの芸能雑誌を、小遣いのほとんどを充てて購入していた。そして、井上ひろしのページを切り抜き、小さな座机の前の壁に何枚か張っていた。いつも井上ひろしの笑顔が、彼女を見つめているのである。
当然のことながら、彼女の母親はその光景を苦々しく思い、「バカ娘が、会えもしない芸能人なんかに熱を上げて。まったくどうしようもないね」とこぼしては、それに抵抗する娘と度々大喧嘩になっていた。
井上ひろしは、バンドボーイを経て昭和33年にザ・ドリフターズにボーカルとしてメンバー入りする。当時のザ・ドリフターズは、現グループのように固定されたメンバーだけで構成されていたのではなく、バンド移籍全盛期だったこともあり、移り変わりが激しかった。
井上とともにこの当時のザ・ドリフターズのボーカルだったメンバーに、坂本九と小野ヤスシなどがいる。山下敬二郎は、このバンドのボーカルの先輩格に当たる。
昭和34年11月、『雨は泣いている』でコロムビアレコードから、井上は念願のソロデビューを果たす。翌12月に吹き込んだ『地下鉄(メトロ)は今日も終電車』で、地下鉄丸ノ内線を舞台にした恋模様を歌い、若い女性たちの心をしっかりと掴んだ。
私も、店の有線で何度もこの曲を聴いたことがある。地下鉄のホームのベンチに座っているという設定で、甘く優しく女性に歌いかけるその声は、なるほどこれは間違いなくモテるなと、いつも感心させられるのである。
「雨に咲く花」 高橋椈太郎:作詞 池田不二男:作曲 井上ひろし:歌
1.
およばぬことと 諦めました
だけど恋しい あの人よ
儘になるなら 今一度
ひと目だけでも 逢いたいの
2.
別れた人を 思えばかなし
呼んでみたとて 遠い空
雨に打たれて 泣いている
花がわたしの 恋かしら
3.
はかない夢に すぎないけれど
忘れられない あの人よ
空に涙の セレナーデ
ひとり泣くのよ むせぶのよ
実はこの『雨に咲く花』、このコラムで今までご紹介した曲の中でも最も古い時代に作られたものである。昭和10年、当初はクラシックのソプラノ歌手であり、古賀政男などの楽曲で歌謡曲も歌っていた関種子により吹き込まれている。
同年公開された新興キネマの村田実監督、高田稔主演の『突破無電』という映画の主題歌として作られた。(もうひとつの主題歌は、作詞作曲者が同じで、高田稔本人の歌唱による『さらば鴎よ』)。
作詞家の高橋掬太郎は、以前、大津美子の『ここに幸あり』をご紹介したときに、その作詞家として少し触れさせていただいたことがある。明治34年(1901年)、20世紀の始まった年生まれであり、石本美由起、宮川哲夫、星野哲郎ら、キラ星の如き作詞家の師匠筋に当たる人だから、もう大御所中の大御所である。
古賀政男とのコンビ作で、藤山一郎の歌唱による古典的名曲『酒は涙か溜息か』で作詞家デビューをしているが、これが昭和6年のこと。『この世の花』は、わずかその4年後に作られているのだから、真に古い曲だと言えよう。
作曲家の池田不二男は、古賀政男、江口夜詩を中心に廻っていた戦前の歌謡界にあって、彼らに負けない抒情的な曲を書く人だった。『この世の花』の翌年の昭和11年、作詞家・西条八十と組んで作った『花言葉の唄』も戦前の大ヒット曲である。
池田は名ディレクターとしても知られ、服部良一を見い出したのも彼だとされている。また、面白いペンネームを持ったことでも有名で、「原野為二」(腹のために)「金子史朗」(金こしらえろう)など、売れない、貧しい時代を反映して付けられたのであろう。
関種子のヒットから四半世紀経って『この世の花』を再びヒットさせ、その後のリバイバルブームの先駆けとなった井上ひろし。翌年の昭和36年には『別れの磯千鳥』により自身最初で最後のNHK紅白歌合戦に出場するが、ピークはこのあたりまでとなった。
その後は低迷状態が続き、地方のキャバレーをドサ回りする、いわゆる「営業」の生活に明け暮れた。そして昭和60年、一念発起して転業を決意し、料理店経営のために調理を勉強し始めたその年の9月19日、心筋梗塞でこの世を去った。44歳の若さ、あれだけ女性に人気がある人だったが、生涯独り身であったという。
-…つづく
第258回:流行り歌に寄せて
No.68 「霧笛が俺を呼んでいる」~昭和35年(1960年)
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