第517回:流行り歌に寄せて No.312「母に捧げるバラード」~昭和48年(1973年)12月10日リリース
先日、高校の最後の同窓会があり、愛知県の春日井市に行ってきた。そして、同窓会の翌朝には母校の新築中の校舎を見学してきた。校舎はもちろんだが、学校のまわりにある店などは、在学中とは大きく変わっていた。おそらく、50年余りの間に、何代も店は変わってきているのだろう。
この『母に捧げるバラード』は、卒業間近に学校の近くの喫茶店か、あるいはマーケットの一角にある、私たち高校生相手にジュース・コーラなどを売り、それを飲むための簡素なベンチが三つほど設けてあった店のラジオで、初めて聴いた。
まず印象に残ったのは、当時はまったく耳に馴染みのない博多弁の台詞である。それを今まで聴いたことのない男の歌手が、ただ叫んでいる。歌なのに、歌っているのはほんの少しで、延々と台詞が続く。最初は、フォーク・ソングとも判らず、何だか妙な「曲」だと思っていた。
そのうち、どうやら「海援隊」というフォーク・グループの、武田鉄矢という長髪の似合わない男が歌っているらしいという情報が、卒業間近で、もうほとんど授業がなくなった私たち3年生の事情通の生徒から流れてくる。
プロローグの台詞→短いフレーズの歌→長い長い母の台詞→再び短いフレーズの歌、という構成になっているのだと、その事情通は話す。
それなら、一体あの長い長い台詞は何が語られているのか、変に興味を持ってしまった私は、その後に出された『月刊明星』の付録「young song」のページを繰ってみた。
読んでみても、荒唐無稽というか、よく判らなかった。博多のお母さんたちの一部は、こんな物言いをしているのだろうか。
まず、デレッーとした毎日を送っている息子が、東京に行くことによって、急に粉骨砕身努力して立派な人間になれると期待する発想が理解できない。
そして息子に向かって、自分たち夫婦の生活の話を持ち出す、おおらかさと言って良いのか分からない部分があったり、自分の半生を「血と汗と泪で汚れた」などと浪花節を語ってみたり、もう堪らないものがある。
仕舞いには、その息子が母のことを「ぼくに人生を教えてくれた やさしいおふくろ」と甘く切なく述懐するのである。
本当に、当時はまったく理解できなかった。今では、このようにある種のコミック・ソング風に、感情をごちゃ混ぜにし、デフォルメされた歌詞を作ることで、そこに情感を持たせているのかなぁ、と何となく感じることはできる。けれども、本当のところは未だに分からない。
今回記した台詞は、表題に書いた年月日に、エレックレコードから出されたシングル・レコードのヴァージョンである。テレビ番組出演、コンサート、ライヴによって、またアルバムや再収録盤などいろいろな状況に応じて、台詞を変えている。そして、イントロ、伴奏、メロディ、楽器編成も、状況によって変えてある。それにより、数多くのヴァージョンがあるようである。
「母に捧げるバラード」 武田鉄矢:作詞 海援隊:作曲 三保敬太郎:編曲 海援隊:歌
〈台詞〉
「お母さん、今僕は思っています。
僕に故郷なんか、なくなってしまったんじゃないかと。
そして、ひとつ残っている故郷があるとすれば
お母さん、それはあなた自身です。
あなたは、何から何まで故郷そのものです。
今、こうして静かに目をとじていると、お母さん、
あなたの声が聞こえてくるんです。 聞こえてくるんです」
今も聞こえる あのおふくろの声
ぼくに人生を教えてくれた
やさしいおふくろ
〈台詞〉
「コラ!テツヤ!何ばしようとかいなこの子は、おまえ、
はよ学校いってこんか。デレーッとして。
近所の人からいつも、おまえ何てウワサされようか、
知っとうとか。タバコ屋の武田ん方の息子は、
フォーク・ソング狂いのバカ息子、バカ息子って、噂されよっとお。
どうしてまた、こげん頭の悪か子のできたとかいねぇ。
ほんなこと、母ちゃん情けなか。
あの日、あの日、父ちゃんが酒さえ飲んで帰ってこんかったら、
おまえのごたあ、バカ息子はできとらんとにねえ。
ほんなことが。
待て!待てテツヤ!またタバコば だまって
もって行きよろうがこの子は。ほんなこと はらん立つ。
家の稼業がタバコ屋からちゅうて、この子は、
小学校四年の時からタバコの味おぼえて
中学校一年の時ゃ、おまえ、歯のウラまっくろやなかったか。
まだ判らんとか。母ちゃんが、このタバコ屋を経営するために
どれだけ苦労しようか、
血と汗と泪でよごれた女の半生が。
まだわからんとか、このバカ息子は、ほんなこと。アホ!
行ってこい!どこへでも行ってきなさいテツヤ。
おまえのごたあ息子が おらんごとなっても、
母ちゃん、なあもさびしうなか。
死ぬ気で働いてみろ、テツヤ。働いて、働いて、働きぬいて、
遊びたいとか、休みたいとか、そんなことおまえ、
いっぺんでも思うてみろ。
そん時ゃ、そん時ゃ、、テツヤ、死ね!
それが、それが人間ぞ。それが男ぞ。
おまえも故郷をすてて、花の都へ行くかぎりは
輝く日本の星となって、帰ってこいよ。行ってこい。どこへでも」
今も聞こえる あのおふくろの声
ぼくに人生を教えてくれた
やさしいおふくろ
「海援隊」のメンバーは。福岡市出身で高校の同級生である武田鉄矢(ヴォーカル、パーカッション、作詞)と中牟田俊男(サイドギター、ヴォーカル。作詞、作曲、編曲)、そして東京都出身の千葉和臣(リードギター、ヴォーカル、作曲、編曲)の3人。
最初は中牟田が武田にバンドを作らないかと持ちかけ(ギターが弾けずに渋っていた武田を説得して)、その後、同級生の野田という人を入れて、「ヤング・ラディーズ」というバンド名で始まった。
当初は、ザ・フォーク・クルセダーズや岡林信康、そして海外のフォーク・ソングなどを歌っていたが、この頃から武田のステージ上のトークが面白いと評判だったらしい。
ある時、ある人に何かの住所録を作りたいからバンド名を教えてほしいと聞かれた。武田は他の二人の承諾もなく「海援隊という名前にします」と答えてしまい、事後承諾で、バンド名を変えてしまったと聞く。
その後、何回かメンバーの入れ替えがあり、海援隊は一旦解散する。しかし、さらにその後「ライラック」というグループにいた千葉和臣と武田、中牟田で、もう一度海援隊を結成しようということになり、再結成する。武田のホームページには、この時をもって海援隊結成、と書かれているという。
『母に捧げるバラード』は、海援隊にとっては2枚目のシングルで、彼らの初シングルは、同じエレックレコードから昭和48年8月25日にリリースされた『恋挽歌』である。
武田が詞を作り、千葉が曲を書いている。舞台は道玄坂、演歌調の曲を武田が上手に歌っている。
武田は『贈る言葉』よりも前の海援隊はコミック・バンドだと自著に書いているとのことである。私は『母に捧げるバラード』以降、あまり売れていなかった時期の曲の中に好きなものが何曲かある。
『故郷未だ忘れ難く』『思えば遠くへ来たもんだ』、そして『あんたが大将』『JODAN JODAN』。前の2曲は望郷の思いを誘い、同じく上京してきた人間として心に染みるものがある。後の2曲は痛烈な皮肉と弱者の意地が重なり合って、エネルギッシュな曲となっている。
海援隊は昭和57年(1982年)、武田と中牟田が、坂本龍馬の享年と同じ33歳の年に、予定通り解散した。その後、何度か一夜限りの再結成などをしていたが、平成6年(1994年)に正式に再結成をする。
『贈る言葉』や、2回目の『3年B組金八先生』のテーマ曲『人として』もよいが、『あんたが大将』『JODAN JODAN』などをステージで元気よく披露してくれるなら、ライヴに行ってみたいものだなあとは思う。
-…つづく
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