第272回:流行り歌に寄せて No.82 「王将」~昭和36年(1961年)
私の父方の祖母は、身長140cm半ばくらいの大変小柄な人であった。けれども、9人の子どもを成し、養蚕指導員として各地を歩き周っていた祖父に代わり家を守った大変気丈な人で、若い頃は私の母も随分ときつく当たられていたらしい。
しかし、その祖母が一度大病を患ってからは、文字通り人が変わったように丸い性格になり、母とも大変に友好な関係になって行った。
私が小学校4年生の頃、祖母と一緒にテレビを観ていた時のことである。長門裕之が阪田三吉を演じた『王将物語』というドラマで、女房の小春役は藤純子だった(彼女が緋牡丹お竜になる3年ばかり前の話である)。
将棋一筋故に破天荒な生き方となっていく阪田の姿(実際の人物よりもかなりデフォルメされて描かれていたように思う)が、祖母にとっては耐えられないものとして映ったのだろう。「ああ、なんて情けない男だよ、あの人は。和(私の名前)、絶対に、どんなことがあっても、あんな生き方をするじゃあねえよ。わかったな」と諄々と諭された。
祖母は20年と少し前に、90歳を過ぎて亡くなったが、平成に入ってからでは珍しい土葬で葬られたとき、私はふと、その「教え」を思い返していた。
「王将」 西條八十:作詞 船村徹:作曲 村田英雄:歌
1.
吹けば飛ぶような 将棋の駒に
賭けた命を 笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋
月も知ってる 俺らの意気地
2.
あの手この手の 思案を胸に
やぶれ長屋で 今年も暮れた
愚痴も言わずに 女房の小春
つくる笑顔が いじらしい
3.
明日は東京に 出て行くからは
なにがなんでも 勝たねばならぬ
空に灯がつく 通天閣に
おれの闘志が また燃える
さて、私はこのコラムを書いていて、あまり本題と関係ないいわゆる「与太ネタ」に流れる傾向にあるが、今回もどうやらそういうことになりそうである。ご容赦いただける方は、どうぞお読み続けください。
今から24回前、ちょうど1年前の12月19日付のコラムで、同じ村田英雄の歌唱である『無法松の一生』について書かせていただいた。同タイトルで映画化されたときの主人公、富島松五郎役の役者について、次のように書いた。
◎阪東妻三郎(昭和18年・大映) ご存知元祖、阪妻版。戦時中であり、検閲により、カットされるシーンが多かった。
◎三船敏郎(昭和33年・東宝) 村田英雄の曲と同年封切り。?
◎三國連太郎(昭和38年・東映)
◎勝新太郎(昭和40年・大映)
※映画で演じた4人が、すべて松五郎と同じく「郎」の字の付く役者であることの偶然が面白い。
さて、今回の『王将』、映画のタイトルは微妙に異なっているが阪田三吉役の役者のライン・アップが興味深い。
◎阪東妻三郎(昭和23年・大映『王将』)
◎辰巳柳太郎(昭和30年・新東宝『王将一代』)
◎三國連太郎(昭和37年・東映『王将』、昭和38年・東映『続・王
将』
◎勝新太郎(昭和48年・東宝『王将』)
三船敏郎と辰巳柳太郎が入れ替わっているだけで、後は同じような時期に同じ役者で、富島松五郎と阪田三吉が演じられているのである(辰巳は、舞台の方では『無法松の一生』を何度も演じている)。
村田英雄の歌が主題歌として使われたのは、三國連太郎が演じた、昭和37年の東映版である。
さて、この『王将』は、作詞家の西條八十が69歳、作曲家の船村徹が29歳と、40歳も年齢の離れたコンビによるものである。
ヒット曲から遠ざかっていた村田が、日本コロムビアの斎藤昇ディレクターと共に西條八十の家を訪ね作詞を依頼したが、当時、美空ひばりの詞を書いていた西條は、「男の歌は作らない」と最初は断った。しかし、村田の粘りに負けて、「吹けば飛ぶような将棋の駒に」というフレーズが出た後、何日も時間をかけて、詞を作ったのだという。
大作詞家の詞を受けた船村は、故郷の栃木県に帰って熟考を重ね、丁寧にメロディーを作っていった。しかし、『王将』のイントロとエンディングに使われた銅鑼の音は、この曲のレコーディング前に友人と行った宇都宮競輪場の打鐘(ジャン)を聞いて思いついたというのは、いかにも粋な遊び人の船村らしいエピソードである。
最初は歌謡浪曲のLPの挿入歌として昭和36年9月に発表され、同年11月にシングル・カット、その後半年で30万枚、トータルで300万枚を売り切ったこの名曲で、村田英雄の名前は不動のものとなって行く。
-…つづく
第273回:流行り歌に寄せて
No.83 「上を向いて歩こう」~昭和36年(1961年)
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