第279回:流行り歌に寄せて No.89「赤いハンカチ」~昭和37年(1962年)
石原裕次郎の曲と言えば、以前、牧村旬子とのデュエット曲「銀座の恋の物語」をご紹介しただけである。しかも、この時は彼のことについて、まったくコメントはしていない。
今回の曲までにも、例えばデビュー曲『狂った果実』を始め、ご紹介できる曲はあったはずなのに、なぜか素通りしてきている。やはりデビュー曲が、作詞をした兄慎太郎との共同作業曲だったというのがネックになった気がする。
正直、彼の兄上ともども、そのスタイルに少しも共感が持てないのである。裕福なヤンチャ兄弟が、小さい時からずっと自分たちの思いのままに、やりたい放題やっている、狭量な私の目には、そのようにしか映らない。住む世界が違う、あまり関わりたくない人という思いが強いのだ。
けれどもいい加減なもので、彼の歌の中にも私が大変好きなものがあって、カラオケで愛唱している曲が3曲ある。『青い滑走路』『夜霧の慕情』、そして今回の『赤いハンカチ』。最初にあげた2曲は、すでに30歳代からよく口ずさんでいたが、『赤いハンカチ』は、50歳代になって、その良さが分かり始めた。
さて、『赤いハンカチ』が世に出た時代は、歌謡曲と映画の蜜月時代であり、さらにその中でも最盛期であったと思う。映画スターがまず歌謡曲を吹き込み、それがヒットしてしばらく経ってから、同名のタイトルで映画を製作して主演し、こちらも大ヒットする。殊にこの映画は、いわゆる日活のムード・アクション映画では最も有名なものだろう。
「赤いハンカチ」 萩原 四朗:作詞 上原 賢六:作曲 石原 裕次郎:歌
1.
アカシヤの 花の下で
あの娘が窃っと 瞼を拭いた
赤いハンカチよ
怨みに濡れた 目がしらに
それでも泪は こぼれて落ちた
2.
北国の 春も逝く日
俺たちだけが しょんぼり見てた
遠い浮雲よ
死ぬ気になれば 二人とも
霞の彼方に 行かれたものを
3.
アカシヤの 花も散って
あの娘はどこか 俤(おもかげ)匂う
赤いハンカチよ
背広の胸に この俺の
こころに遺るよ 切ない影が
作詞家の萩原四朗は、浪曲歌謡という珍しい分野で活躍した人で、戦前には美人芸者歌手、美ち奴に『吉良の仁吉』、東海林太郎に『『涯なき南海』などのヒット曲を提供していた。戦後はテイチクレコードの役員となり、三波春夫の浪曲ものや、石原裕次郎の詞などを作り続けた。
一方、作曲家の上原賢六は東洋音楽学校を卒業したが終戦直前に応召し、満州で終戦を迎えてから、シベリヤ抑留生活を経験することとなる。帰国後は上原げんとの下で作曲を学び、同じ作曲家の船村徹とも親交を深めている。萩原四朗との共作も多く、『赤いハンカチ』の他に『錆びたナイフ』『夕陽の丘』など裕次郎作品の他、二人で多くの歌い手に楽曲を提供している。
さて、先ほど50歳代になってからこの歌の良さが分かってきたと書いたが、それは殊に2番の詞についてである。
この歌の2番は、明らかに1番、3番とはその趣きが異なっている。一見、別の歌かと見間違えるような内容でさえある。
「北国の春も逝く日」の『春が逝く』というのは、詩情あふれる表現である。あるいは、作詞家の萩原四朗の得意とする浪曲に使われるものなのだろうか。
そんな春の終わりつつある日に、しょんぼりと遠くにある浮雲を見ていなくてはならないのはなぜか。それは、二人が彼方河岸(あちらかし)に行く覚悟を持ち得なかったからである。あるいは女性の側にはそれがあったが、男性にはなかった。
死ぬ気になって、あらゆるしがらみから逃れ、霞の彼方へ行くことを選べなかった二人の、悔恨の心持ちが歌われている。中年というか初老に足を踏み入れている男にとっては、それがジンと沁みるのだ。若い時には持たなかった理解の仕方で、この曲の世界観を掴むのだと思う。
-…つづく
第280回:流行り歌に寄せて No.90「霧子のタンゴ」~昭和37年(1962年)
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