第344回:翌朝も雪景色 -寝台特急カシオペア 2-
私たちはゆったりと夕食を済ませた。時刻は19時20分。列車は函館本線を南下している。フランス料理のコースなんて、たいした量はないだろうと思っていたけれど、意外にも腹は満ちた。ゆっくり食事をしたせいかもしれない。私は母を誘って最後尾のラウンジカーに行った。このまま部屋に戻っても母と向かい合わせに座るだけで、窓の景色は真っ暗である。ずっと母と向かい合う格好になり、少々息苦しいだろう。この車両にラウンジカーが設けられた理由は知らない。全て個室の列車だから、パブリックスペースは入らないとは言い切れない。空間は人間関係の潤滑油である。
意外と不人気な展望ラウンジ。
ラウンジカーの先客はふたり。どちらも男性で、ひとりは最後部、ひとりは中央に座っていた。気まずさから逃れてきたのかな、と思う。長年連れ添ったとしても、ひとりの時間は必要かもしれない。私と母は並んで座り、私は最後部の展望を眺め、母は側面の大きなガラスを眺めている。灯が車体の真横を流れ、真後ろに移り、遠くの一点に収束されていく。星を飲み込むブラックホールのようである。
こんな景色をぼうっと眺めていると飽きない。母もそうらしいけれど、「寒いから部屋に戻るわ」と言って扉の奥に消えた。私はあと1時間ほどここに残るつもりだ。カシオペアは函館で機関車を交換する。それを見たい。北海道内は青いディーゼル機関車の重連だった。函館から青森までは青函トンネルを走行するため、専用の赤い機関車が牽引する。このとき列車の向きも変わって、最後尾の展望車側に機関車を連結する。その様子を室内から眺める権利は乗客だけが持つ。逃す手はない。
ついに私だけになってしまった。
それにしても、ラウンジに人が少ない。先客のふたりが去って、とうとう私ひとりになっている。彼らは景色が飽きて部屋に戻ったか、食堂車のパブタイムに行ったかもしれない。こんな素晴らしい空間を独り占めとは贅沢な気分である。小さな駅に停まり、列車のすれ違いが行われた。静かな空間で無音のまま行われるモノトーンの儀式。サイレント映画を見ているようでもある。こんなに素晴らしい景色を誰も見に来ない。その理由は母が言っていた"寒さ"かもしれない。
ただしこの寒さには理由があって、室内を暖めると窓ガラスが曇ってしまうからだろう。室内を暖めるなんて簡単なことである。何しろラウンジカーの床下は電源車で、客室や食堂車に電力を供給する発電機が回っている。いわば火力発電所であって、かなりの熱を発するはずだ。もうひとつの理由があるとすれば、車窓に室内が映り込んでしまい、景色が見づらい。間接照明を片側の壁に寄せたり、テーブルの下に配置したりと工夫しているけれど、やはり夜の車窓には映り込んでしまう。
深夜の車窓劇場。
その映り込みの向こうに目を凝らしていたら、21時ちょっと前に列車は速度を落とし、ガタガタとポイントを渡って駅に停まった。函館である。ラウンジカーに数人の乗客が訪れた。みなカメラを持っている。私と同じ目的で、機関車の連結場面を撮りに来たらしい。私は先客の特権として、もっとも撮りやすい場所に陣取っていた。それは最後部の大きな窓……ではなく、その隣の窓である。ここがもっとも室内灯の映り込みが少なく、ガラスが平面に近い。正面は映り込みがひどく緩やかな曲面になっている。
青函トンネル用の機関車を連結。
私は前屈みになってカメラをガラスに押しつけた。暗い夜の向こうから、ふたつの光点が近づいて来る。その光の回りに赤い機関車の形が現れる。機関車は3メートルほど向こうでいったん停まった。ホームに黄色いヘルメットを被った作業員が数名いた。汽笛で合図しながら機関車が寄って、ラウンジカー最後部の窓を塞いだ。作業員がホームの下に入り、ブレーキ管か制御用のケーブルをつなぐ。こちら向きのヘッドライトが消えた。そしてしばらくの静寂のあと、列車が機関車の方向に走り出した。
逆方向に走り出す。
私は逆向きの走行をしばらく見守ってから部屋に戻った。母はすでにベッドメイクを済ませており、窓際のベッドで横になっていた。ふだんの生活なら寝るには早い。でも、暗い時間の列車内では寝るしかない。私もベッドに横たわった。青森でもう一度、機関車を交換するけれど、早起きをしたのでさすがに眠い。A寝台個室のベッドは良い寝心地だ。しかし、右を向くと母の足である。L字型配置だから仕方ない。私が逆向きに寝ればいいとも思うけれど、そうすると頭が荷物置場の真下になって落ち着かない。頭を近づけるように寝たらいいんだ……と母を見たら、もう寝息を立てていた。
心地よい揺れで目覚めた。窓にかかったスクリーンの端が明るい。朝になったようだ。しかし、母がまだ寝ているようで、私も再び目を閉じた。次に起きたときは、さすがにもう眠れずに起き出した。汗かきのせいか、寝具が温まりすぎると眠れない。もぞもぞと着替えていたら、母も起きた。窓のスクリーンを開けると銀世界であった。まだ北海道にいるかと思った。少し経って、まだ寝ぼけているらしいと気づく。それにしても、もう南東北か北関東を走っている頃合いである。この時期の積雪は珍しいと思う。
朝も雪景色。
母も雪景色を楽しんでいる様子である。まだ旅が続いていると思わせる。積雪がなく、建物が立ち並ぶ殺風景な車窓なら、東京の近さ、旅の終わりの気分が始まったところだ。食堂車で朝食にしようかと提案した。しかし母は要らないと言う。もともと朝は食べない人である。「列車の中で温かいご飯とみそ汁が飲めるなんて感動モノだよ」と念を押したけど、やっぱり要らないと言う。それでは、のどが渇いたからラウンジでコーヒーを飲もうと言うと、そこは賛成のようであった。昨夜、ウェルカムドリンクと一緒にモーニングドリンクの引換券もついてきた。
朝のラウンジは賑やか。
ラウンジには10人ほどの乗客がいた。やはり景色が見える時間は人気がある。ラウンジの手前の売店で引換券を渡すと、しばらくしてホットコーヒーを持ってきてくれた。雪景色を眺めながら温かいコーヒーを飲む。これもかなり贅沢な時間である。最後部の特等席には先客がいた。彼らごと後方の視界を眺めていると、長いコンテナ貨物列車とすれ違った。あの列車は夜通し走って北海道まで行くだろうか。街が近づいているようで、踏切の数も増えている。通せんぼうを食らったクルマの列が長くなってきた。私たちは目覚めたばかり。しかし、街は活動を始めている。
モーニングコーヒーをラウンジで。
車窓の線路の数が増えて列車が駅に停まった。宇都宮である。07時50分。車掌さんのアナウンスで、新幹線の乗り換えも紹介されていたけれど、ここから新幹線で上野に早く着きたい人などいるかと思う。急ぐなら始めから飛行機や新幹線に乗っただろうに。いや、忙しい人だからこそ、わざわざカシオペアに乗る区間を作ったかもしれない。水滴の窓の外に誰もいないホームがある。その向こうに横須賀線色の115系電車が停まっていて、よく見ると白いラインが多い。側面に救援車と書いてあった。
宇都宮を過ぎても雪景色は終わらない。もしかしたら、東京まで雪だろうか。いつまでも旅気分で帰宅できるならそれも嬉しい。そんな思いで景色を眺めていると、車窓左側に大きな操車場が現れた。宇都宮貨物ターミナルだ。車窓右側には新幹線の高架があり、その高架の下に、なぜか黒い車掌車が並んでいた。車掌車は2軸の小さな貨車の一種で、かつて貨物列車に車掌が乗務していたときに、必ず最後尾に連結されていた。貨物車掌の廃止は1985年だった。この車掌車たちは、もう20年以上もここに並べられているらしい。この先、どうなるのだろう。博物館に飾るにしても、こんなには要らないだろう。
宇都宮駅に到着。
ラウンジの乗客たちはコーヒーを飲み終わると部屋に戻っていった。この先の停車駅は大宮、そして終点の上野である。荷物をまとめる準備もあるのだろう。通過していく駅に通勤通学姿の人々がいる。すれ違う列車の頻度も高くなってきた。母もそわそわしてきたようで、もう部屋に戻ると言う。私は到着ぎりぎりまで展望車窓を楽しむつもりだ。ラウンジカーは、また私ひとりになった。雪へ景色を走るカシオペアが珍しいせいか、沿線には三脚を立てて撮影する鉄道ファンを何人も見かけた。雪が珍しいだけではなく、この列車を牽引する機関車、EF81形が今年中に新型に切り替わる。雪とEF81を同時に撮る最後の機会。だからファンが押しかけたというわけだ。
このままひとりかと思ったら、大宮駅で珍客が訪れた。アジア系外国人の若い女性だ。いや珍客は彼女ではなく、彼女の荷物だ。彼女は小さなバッグを展望窓の手前中央に置いた。なんでこんな所に、と訝ったけれど、謎はすぐに解けた。彼女が鞄を開けると、小犬が顔を出した。ヨークシャー・テリアだった。顔の割には大きな黒い瞳で辺りを見渡し、飼い主を見つけると安堵したような表情になった。なるほど、彼女は展望車窓と犬の記念写真を撮りたくて、わざわざ人のいない時間にやってきたようだ。
大宮駅でラウンジに来たワンコ。
触ってもいいかというと、噛むよという表情をした。その彼女の表情が可愛かった。写真を撮ってもいいかとカメラを見せると頷いてくれた。カメラを向けたけれど、犬は飼い主を見つめたままだった。このふたりと1匹が、ラウンジカーの最後の客となった。
個室に戻ると母が荷造りを終えていた。ラウンジカーの犬の話をしたら残念がり、ペットホテルに預けた私の飼い犬を思い出した。帰ったらすぐに引き取りに行かねばならない。そう思うと気持ちが急ぐ。上野着09時25分。カシオペアは上野駅地平ホームに到着した。乗客たちが乗り換え列車のホームへ急ぐ中、私は列車の前後を撮影した。その間に、カシオペアの後を追うようにやってきた北斗星も到着し、その並びの写真も撮った。私にとって、EF81が牽くカシオペアと北斗星を見る最後の機会かもしれない。
ラッシュが終わった時間の通勤電車で自宅に戻り、荷ほどきもそこそこにクルマに乗り換えて犬を迎えに行った。帰りの車中で母に旅の感想を聞いたところ、とても楽しかったとのこと。「次はどこに行こうかしら」とまで言ってのけた。私としては最初で最後のつもりだった。この一言で、今回の同行は成功か失敗かわからなくなってきた。犬が久しぶりに家族に会えてはしゃいでいるけれど、次の旅があるなら、彼はまたペットホテルに預けられる運命なのであった。
上野駅でEF81の並び。
2010年02月14-18日の新規乗車線区
JR:217.2Km
私鉄: 0.0Km
累計乗車線区(達成率)
JR(JNR):18,325.6Km (81.71%)
私鉄: 5,453.9Km (78.68%)
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