第343回:最高の夜を母に -寝台特急カシオペア 1-
室蘭駅は珍しく駅弁を販売していた。『母恋めし』とあるので、本来は母恋駅の名物らしい。ひとつだけ残っていて、ちょっと気になったから母に見せた。夕食は量が少ないかも……とささやいたので、母がひとつ買った。なんだか、そそのかしたみたいだ。もっとも、室蘭付近の名物なら中身はどうせ海産物である。私は食べられない。
予定では室蘭発17時06分の列車に乗る予定だった。しかし予想より早く街巡りが終わって、30分ほど時間が余った。そうかといって、ここにいても仕方ない。発車案内を見ると16時42分発の列車がある。しかもこの列車は東室蘭から特急『すずらん』として運行する。ということは、車両は特急用である。こっちのほうが面白い。各駅停車に特急用車両を使ったおトクな列車について、なんで面白いかを母に説明しても面倒だから言わない。
785系特急車両を使った普通列車。
785系特急電車は初めて乗るから、外観や客室の写真を撮り歩いた。今までは興味のある車両しか撮らなかった。乗車した車両の写真もせいぜい外観だけだ。しかし、最近は鉄道関係の仕事も増えている。そこで車内やパンタグラフなど、なるべくいろいろな部分の写真を撮るようにしている。出会った事象はなんでもメモや写真に残す。これはライターの基本でもある。なにがどこで幸いするかわからないからだ。……と書けばカッコイイかもしれないけれど、実は母に対して、仕事をしている風な態度を見せておかなくてはいけない。こんな事に気を遣うなんて、今回の旅は授業参観のようだ。
予定より速い列車に乗ったので予定より早く東室蘭に着いた。でも、帰りの列車は同じだから、余った時間が東室蘭に移動しただけだった。次に乗る列車で今回の旅は終わりだ。寝台特急カシオペア。東室蘭発17時53分。発車まであと1時間。さて、どうしようか。母がいなければ駅前をちょっとぶらつくか、早めにホームに降りて駅の雰囲気を眺めて過ごすか。室蘭駅で見かけた電光掲示板は気温マイナス2度だった。そんな寒いところで母を連れ回しても仕方ない。そうかといって、駅に母をひとり置いていくという案は感心しない。母に万が一の事態が起きたら、私は保護責任者遺棄になるかもしれない。そういえば土産を買っていなかった。そうだ土産だ。母はパート先へ、私もスケジュールを融通して貰った仕事仲間への土産物を選んだ。良い暇つぶしになった。
闇から列車が飛び出してくる。
発車10分前にホームへ降りた。他に客はいない。日本一の豪華寝台特急カシオペアとなると、誰もが始発駅の札幌から乗るのだろう。少しでも長く車内で過ごしたい。私もそうだけれど、札幌から乗ると、また室蘭支線を乗り逃してしまう。ここは我慢である。カシオペアは当分は廃止にならないだろうから、また乗る機会があるだろう。それなら今回は乗らなくても良かったとも言える。『ぐるり北海道フリーきっぷ』は寝台特急北斗星のB寝台なら個室でも差額無しだ。
それでも今回はカシオペアにこだわり、キャンセル待ちにチャレンジした。今回の旅に母が不満だったときを考えて、ラストは憧れの寝台特急でしめくくろうと考えた。もちろん私の好奇心を満たすためでもある。カシオペアは二人用個室しかないから、ひとりで乗ってもふたり分の料金が必要になる。上り列車に限りひとりで乗れる制度があるらしいけれど、それでも割高になってしまう。要するに親孝行と見せかけて、母をダシにしてカシオペアに乗りたかったというわけだ。
途中駅から静かな旅立ち。
すっかり日が暮れた。誰もいないホームに列車到着の自動放送が流れた。線路の向こうに目をこらすと、闇の中に明るい点がふたつ灯った。その光がだんだん大きくなり、レールがココン、ココンと鳴り始める。ディーゼル機関車の重低音が近づいてくる。そして青い機関車が構内灯に照らされて浮かび上がった。轟音が通り過ぎ、銀色の客車がゆっくりとスピードを落とし、停まった。途中駅から夜行列車に乗る風景も悪くない。ホームに横付けされた列車の写真を撮ってみた。暗いからシャッター速度が決まらない。カメラの設定を変更して試そうとしたけれど、ホームの発車の合図が鳴り響く。たしか2分停車だったはず。それを急かされるとは、列車の運行が遅れているかもしれない。
私たちの着席を待たずに列車が動き出した。車体がポイントでガタガタ揺れる。私たちはよろよろと指定した個室に向かった。カシオペアは全室A寝台二人用個室のみ。その中でももっとも安い"カシオペアツイン"の階下席が今夜の宿である。階上席が良かったけれど、ここしか空きがなかった。ベッドがふたりぶん。トイレ付き。広さは三畳間くらいだろうか。こんな便所脇の使用人部屋のような空間でも、日本最高レベルの客室のひとつだ。
今夜の宿はL字型ベッド。
それでも母は大喜びである。実は私もウキウキしている。大きな窓。向かい合う座席。この座席はひとりぶんのベッドになる。もうひとつのベッドはL字型に並んでいた。窓側を頭にすると、足下になる方の上は荷物置場になっている。その隣はトイレと洗面台だ。トイレの隣のキャビネットにはテレビ画面がついていて、カーナビのような地図が現在位置を教えてくれている。夜行列車の行程はほとんど闇の中だから、これは嬉しい。
トイレの横のハイテク表示板。
母が窓側のベッド、私が荷物置場下のベッド。そんなふうに位置が決まったところでノックされた。ウェルカムドリンクだ。予想よりずっと部屋が狭い。そんな落胆はこんな心遣いで帳消しになった。母がご機嫌であること。いまはそれで充分である。大きな窓は暗い夜を映しているけれど、時折、街の灯が通り過ぎる。まさに夜汽車の風情である。そしてゆっくりと列車が停まった。カーナビ画面によると伊達紋別駅である。人の姿はない。階下席の低い窓から見ると、魚が居ない熱帯魚水槽に見える。ホームに積もった雪が底砂のようだ。
夜の伊達紋別駅。
さて、やっと座れたけれど、ゆっくりはしていられない。18時30分から食堂車を予約している。私たちはちょっと身なりを整えて食堂車に向かった。列車は満席と聞いていたし、食堂は混んでいて相席になるかもしれないと聞いていた。しかしテーブルは半分も空いていた。ちょっと寂しい気がする。私たちは2人用のテーブルに案内された。料理はフランス料理のフルコースで、みどりの窓口で予約済みだ。飲み物の注文は別で、母はグラスビール、私はノンアルコールにしようと思ったけれど、梅酒にした。ちょっとくらいは酒を飲んでもいいだろう。喘息の発作止めは携帯しているし、母も付いている。
梅酒でディナースタート。
前菜。
料理はひと皿ずつ丁寧に運ばれてくる。前菜はガラスのカップに入ったサラダ。新鮮なカニやホタテが入っていて、私はカップごと母に突きだして取り除いて貰った。私は生の魚介類を受け付けない。母は大好物である。悪いわね、言いながら母は自分のカップに移した。イクラは母も苦手なようで残された。私は丁寧にイクラを取り除き、漬け汁がかかっていない野菜を食べた。次はヒラメの湯葉包み蒸し。これは私も大丈夫。続いて牛フィレ肉のソテー。アメリカ料理だとステーキで、フランスだとソテーになるらしい。どうやら私はステーキの方が好みのようだ。
魚料理。
肉料理。
母はビールを飲み干し、「最高にいい気分」とご満悦である。そろそろ列車は内浦湾沿いを走る頃だ。もちろん景色は見えない。デザートはチョコレートケーキとアイスクリームとフルーツの盛り合わせ。甘いモノがこれだけあると満足度が高い。全体的に量が少ないような気がしたけれど、ゆっくり食べたせいか満ち足りた。添えられたパンがうまかった。梅酒もすがすがしい甘みと優しい香りで飲みやすい。ただし体調を考慮して、ショットグラス2杯にとどめ、残った瓶を持ち帰った。
デザート。
梅酒の瓶は旅の後、私の部屋の冷蔵庫で保管された。眠れぬ夜のための私の楽しみとなったものの、なかなか出番が訪れず、3ヵ月後に遊びに来た母に飲み干される運命となった。醸造元は木内酒造という茨城県の蔵元である。ビールを蒸留した焼酎で漬けたという珍しい品だった。私はがっかりしつつ、この会社の通販サイトをブックマークした。
-…つづく
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