第334回:夜明けの札幌駅 -急行はまなす-
急行はまなすのカーペットシートは硬かった。1階席で床に近いこともあって、車体の揺れを大きく感じる。車体は左右に揺れて、私は枕木と同じ向きに寝ていた。船にたとえると、身体はピッチ方向に揺られている。初めて乗った列車だけど、この揺れは懐かしい。青函連絡船の三等室のカーペットに横になったときを思い出した。大きなものに身を委ねた、安心感とも諦めにも似た感覚だ。最後に乗った青函連絡船は十和田丸。国鉄最後の日だった。函館から青森まで、あのときは4時間くらい眠っただろうか。
はまなすカーペットはひとりにひとつ窓がある。
夜中にふと目覚めた。どのあたりだろう。携帯電話で時刻表サイトを確認する。函館に到着したようだ。しばらくして逆向きに走り出した。次は東室蘭で目覚めた。外の景色を見ようにも、まだ真っ暗だ。カーペットシートの区画は、枕の上のほうに四角い窓がある。通路側も大きな横長の窓が並ぶ。今はどちらもカーテンで閉ざされていた。個室ではないから、夜中に開けると隣の人を起こしてしまいそうだ。右隣には中年男性がこちらに背中を向けている。左隣は母で、こちらは行儀よく仰向けだった。幼いころ、曾祖母に厳しくしつけられ、寝るときは足を手ぬぐいで結ばれたという話を聞いたことがある。ずいぶんいやな思い出だったらしい。いま、母は当時の曾祖母の歳であろうか。
母は顔にハンカチを載せていた。死んだ人みたいである。読書灯が眩しく、消灯しようにもスイッチの場所がわからなかったようだ。列車が走り始めたとき、徹夜明けの私はとにかく眠くて、横になってすぐに眠ってしまった。私は無意識にスイッチの場所を探し当てた。それが母には見つけられなかったらしい。起こして聞いてくれたらいいのに、気を使ってくれたようだ。なんだか済まない気持ちになって、そっとスイッチを切った。ハンカチはそのままにしておく。ハンカチを取ったときに目が開いていたら怖い。母は眠っても薄目が開いていることがある。なるべく見たくない。
通路側の窓は閉ざされたまま。
次の目覚めは千歳を過ぎたあたり。窓の隙間から青い光が漏れていた。ちょっと寒い。毛布を身体に巻きつけた。それでも寝付けなくなって、結局身体を起こした。しばらくすると母も起きた。新札幌を過ぎて、あと10分ほどで札幌に着く。周囲の人々も起きだして荷物を整えている。毛布をたたみ、枕を重ねて窓の下に押しやったとき、カーペットの温度調節器を発見した。これで調節すれば、もうすこし暖かく過ごせたようだ。ちょっと失敗。母には黙っておこう。
はまなすは定刻の06時07分に札幌駅に到着した。まだ夜明け前。ホームに下りると目の覚めるような冷たい空気に包まれる。空気も建物も青い。そこで母をしばらく待たせて、機関車の写真を撮りにいく。役目を終えた列車が引き上げる様子を眺めたかったけれど、この寒さでは無理をしないほうがよさそうだ。私は母を促して階段を下りた。カーペット座席の感想を聞くと「横になって寝られるから楽ね」と言った。「こんな旅はもうこりごり」とは、まだ言わない。
夜明けの札幌駅に到着。
なにか温かい飲み物がほしい。そろそろ人々が活動を始める時間である。きっと駅構内に喫茶店が営業しているだろう。しかし期待は見事に外れた。では改札を出てみよう。改札口の前にベンチが並んでおり、列車を待つ人々がいた。そこで母を待たせて、駅の両側の街を見に行った。24時間営業のファーストフード店があるに違いない。残念。なかった。札幌駅は大都市の中心ではあるけれど、官公庁が集まる地域のようで、飲食店が見当たらない。やっぱり駅に入ろう。駅の中に待合室があるはずだと、開店したばかりの売店でパンと缶コーヒーを買って改札を通った。
待合所はあったけれど、そこは"室"ではなくコンコースの一角だった。大きなだるまストーブだけが雪国らしさを演出している。大型の液晶テレビがあって、NHKの天気予報を映していた。今日の札幌の最高気温は-4度。網走の最高気温は-8度であった。冬の北海道に来たな、と思う。天気予報に続いて、札幌発の特急列車と航空便の空席情報がある。札幌に住むと、朝のニュースを見るたびに旅心が疼きそうである。画面はオリンピック中継に変わった。待合室の全員が画面に注目している。道東の中札内出身の選手がスケート競技に出場するという。こんなところでパブリックビューイングを楽しめるとは思わなかった。しかし、観客たちはあまり盛り上がらず、じっと画面を見つめるだけだった。
札幌駅。
母に缶コーヒーとパンを渡し、私もテレビを眺めながらパンをかじった。私たちはこれから特急列車で網走に向かう。発車時刻は07時55分で、約2時間も待ち時間がある。実は、こんなところで時間をつぶさなくても、それより30分早い7時21分発の特急"オホーツク1号"がある。これなら昼過ぎに網走に着くから観光に便利だ。これに乗らず、次の07時55分発にした理由は、この時期だけ走る臨時列車、"流氷特急オホーツクの風"だからである。
定期列車の"オホーツク"は、ビジネス客も似合いそうなごく普通のディーゼル車両を使う。しかし、大河ドラマみたいな名前の"流氷特急オホーツクの風"は観光専用だ。ノースレインボーエクスプレスという車両を使っている。展望を良くするために、通常の座席より高い位置に座席を置いたハイデッカータイプ。窓は天井まで回りこむ。運転台付近は大きなガラス窓で、客室内からも前面展望を楽しめる。液晶テレビを配置してビデオを流してくれると言うし、中間車の1階にはゆったりくつろげるロビーも備える。それでいて料金は"オホーツク"と同じ。どうせ乗るならこっちがいい。
昼食の弁当を調達。
そんなわけで、早々にチケットを手配して乗車日を楽しみに待っていた。しかしここでひと波乱が起きてしまう。なんと、私たちの乗車の6日前に、そのリゾート車両に故障が見つかった。JR北海道のWebサイトには故障のため運休とあり、復旧時期は未定。その間"流氷特急オホーツクの風"は通常の車両で代走するという。なんとも微妙なタイミングだ。ずっと故障したままなら、同じ車両の"オホーツク1号"で早めに網走に入りたい。観光の時間を長めに取れるからだ。指定席を取り直すべきだろうか。しかし、出発までに修理が終わるとしたら、もう流氷特急の指定席は取り戻せないかもしれない。少し悩んで、指定席は変更しないと決めた。当日までに修理が終わらなければ、当日朝に"オホーツク1号"の指定席へ変更して貰う。指定席がなければ自由席に並ぶ。出発の1時間半前に札幌に着いているから、自由席でも座れるだろう……。などと気をもんでいたけれど、2日後の11日には修理完了のプレスリリースが出た。
ほっとした。しかし、このリゾート車両は製造から18年を経過している。この先、故障が多発すれば、あっさり廃車されるかもしれない。もしかしたら、今回が最初で最後の乗車になるかもしれなかった。
リゾート車両が颯爽と登場。
-…つづく
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