第342回:冬の夕張・室蘭観光 -夕張支線2 室蘭本線-
夕張市では、私たちが訪れた2週間後に全国にも知られた夕張映画祭が行われるという。それはたいそうな活気だろうから、この時期に訪れてよかったとも思う。夕張市は財政が破綻したと報道されている。だからといって沈んでばかりではいられない。夕張支線の車窓からは、"夢棟"、"翔棟"と名づけられた集合住宅も見えた。夕張は前向きに、ひたむきにがんばっている。JRも雪のない時期に"夕張応援号"というSL列車を走らせて、観光を支援している。やはり、夏にもう一度訪れたいところだ。
夕張支線で途中下車。
しかし、冬にも見所はある。旅立つ前に調べたところ、冬の時期に開いている観光施設をひとつ見つけた。夕張鹿鳴館といって、夕張全盛時を偲ばせる建物らしい。最寄り駅は夕張の隣、鹿ノ谷駅だ。列車の客は私たちだけ。鹿ノ谷で降りた客も私たちだけ。列車は空気だけを載せて新夕張へ走っていった。
鹿ノ谷駅はホームも駅名標も雪に埋もれていた。無人駅ながら駅舎があり、引き戸を開けて入れば、ガランとした何もない空間だった。体育倉庫に窓をつけたような建物である。ホームとは反対側の引き戸を開ければ、真っ白な坂道が続いている。私たちは足元に注意して歩き出した。夕張鹿鳴館は鹿ノ谷駅から徒歩7分というけれど、それは雪のない時期の話だろう。車輪つきの鞄は積雪には向かない。車輪が雪に沈み、引き摺れば雪をかき集めて重くなる。坂を下り、国道を歩き、また上り坂を進んで15分かかった。
夕張鹿鳴館は雪の中に佇む。
夕張鹿鳴館は、夕張鹿ノ谷倶楽部として大正2年に建てられた。和室、洋室、大食堂などを備え、資材や調度品は一級品を集めた。当時は夕張炭鉱の迎賓館として、政治家や実業家たちが集ったという。夕張炭鉱の最盛期の面影を残す建物である。NHKの朝の連続ドラマ『すずらん』で、炭鉱会社の社長室として使われたという。北海道の小さな駅の駅長の娘が、戦前、戦中、戦後の波乱の人生を生き抜くという物語で、私の好きなドラマだった。主な舞台となった場所は留萌本線の恵比島駅だった。こことはずいぶん離れているけれど、昭和の面影を探して選び抜いた場所だったようだ。
ここはかつて、昭和天皇も視察でお泊りになり、今上天皇が皇太子だった頃にも宿泊されたという。雪道を渋々ついてきた母は、この話に興味を示した。私の母の年代に皇室ファンは多い。民間出身の美智子皇后と同世代だからだろうか。皇室は憧れの対象だ。皇室特集のテレビもよく見ている。そんな母は、天皇陛下が泊まった部屋に入り、ベッド、ソファなどを興味深そうに眺めていた。壁には天皇陛下行幸を伝える新聞が掲げられていた。「煤煙ともやの横たわる夕張市を眺めながら、さわやかな山頂の風景を楽しまれた」などと書いてある。陛下のお喜びを伝えつつ、たった一行で階級格差を意識させる名文である。「天皇の列に警察が割り込み顰蹙を買った」という記事もある。労働者がビラをまくという噂があったからだった。物騒ではある。しかし、今の夕張からは想像もできないほどの活気でもある。
天皇陛下が滞在された部屋。
観光施設となったとはいえ、寒い時期は客が少ないようで、レストランの客は私たちだけだった。野菜料理の得意なシェフがいるというけれど、私は鹿肉のハンバーグを頼んでみた。母もそれに倣った。初めて食べた鹿肉は独特の強い香りで、その香りの奥に、肉の旨みを微かに感じた。珍しいものを食べた、という気分になった。昨日はSL列車の車窓から鹿を愛で、今日は鹿を食べる。つくづく人は罪深い生き物だ。
鹿ノ谷駅に戻って夕張支線に乗る。ワンマン運転のディーゼルカーは、さっきと同じ運転士だった。そろそろ定年ではないか、という姿である。秒刻みの都会の電車を担当する人もいれば、一日に数本のローカル線を担当する人もいる。同じ運転士でも、ずいぶん生き方が違うだろうなと思う。南渋沢駅から高校生がたくさん乗ってきた。乗るときも降りるときも運転士さんと挨拶を交わしている。分刻みの人生にはない景色である。
鹿肉のハンバーグステーキ。
新夕張から特急"スーパーとかち4号"で南千歳へ。ここから特急"北斗14号"で東室蘭に向かう。今回の旅の最終目的地は室蘭本線の支線である。室蘭本線は本州と札幌を結ぶ列車のメインストリートだ。ところが路線名の由来となる室蘭は絵鞆半島の先にあって、東室蘭から支線を出して結ぶ形になっている。札幌と室蘭を結ぶ特急はある。しかし、函館方面と札幌方面を結ぶ特急は室蘭に寄らず、本線上の東室蘭に停車するのみである。
私は室蘭本線に何度も乗っている。ただし支線に乗る機会はなかった。今回の旅でやっと乗れる。母を連れ回すようで心苦しいけれど、これが私のたびのスタイルだから付き合っていただく。その代わり特急列車はすべて窓際の座席を進呈した。私には見慣れた景色だ。もっとも、母はそろそろお疲れのようで、ときどき目を閉じていた。
室蘭本線の支線へ。
室蘭は半島の中央の港町として栄えた。絵鞆半島は内浦湾の門番のような存在で、北海道の中でも南寄りの太平洋岸だから、冬でも大型船の行き来ができる。室蘭港は石炭の産地を背景に鉄鋼業や石油化学工業で栄え、最盛期の人口は20万人。現在の人口は約9万5,000人。半分に減っているけれど、北海道の都市としては大きいほうである。
室蘭支線は電化された複線だ。しかし、東室蘭発、室蘭行きの普通列車はディーゼルカーだった。電車は札幌直通の特急だけらしい。私は母を座席に残し、運転席のそばに立った。私もちょっと眠くなっていて、立っていたほうが景色に集中できる。沿線人口が約10万人というだけあって、乗客は多い。2両編成の車内は座席がすべて埋まる。2両編成とはいえ、昼下がりの大都市近郊私鉄と変わらない様子だ。
沿線にはタンクや無骨な構造物など、工場系の建物が散在していた。そして風力発電の大きなプロペラがふたつ見える。窓ガラスに乱反射する日差しは強く、外を歩けば汗をかきそうだ。2月とはいえ、道南地方の雪は少なかった。晴天で地面が温められたせいか、日陰に少し残る程度であった。
母恋駅。
母恋駅で乗客のほとんどが降りた。このあたりが町の中心らしい。母を連れた旅で"母に恋"という駅を通るとはなんという偶然だろう。もっとも、母恋という駅名はアイヌ語の当て字で、このあたりには「母を慕う子の悲哀」などという伝説はない。それを説明しにいくとは無粋だと思うから、私は運転台の後ろに立ったままである。後方で座っている母がどんな感想を持ったかは知らない。自分の母について何か思ったかもしれない。
次が終着駅の室蘭駅だ。東室蘭から約13分の乗車である。歴史のある終着駅にしては小さい駅舎だ。デザインも現代的で、出札窓口と待合室の様子は都会のセレクトショップ風でもある。実はこの駅舎は1997(平成9)年に建てられた新しい建物だ。人口20万人時代の、鉄鋼業でにぎわった当時の駅はもっと港寄りにあった。その旧駅舎が今でも残っているらしいので見物に行く。オープンカウンター式の出札口に美人の駅員さんがいて、旧駅舎までは徒歩で10分くらいだという。私は行こうと思う。母にどうするか聞くと、一緒に行くという。まだまだ元気である。
清潔感のある室蘭駅。
旧室蘭駅舎は、かつての栄華の面影を残す重厚な姿をしていた。内部は体育館のように空っぽである。当時は待合室として、これだけの広さが必要な街だったというわけだ。駅事務室は役所が使っており、観光案内の窓口もあった。私たちに許された滞在時間はあと1時間。室蘭の観光名所といえば、地球の丸さを実感できるという岬の展望台が有名だ。そこまで行く時間はない。小一時間で見物できる場所はないかと尋ねても、窓口のおばちゃんは思い当たる場所がないという。
こちらは歴史ある旧駅舎。
差し出された観光地図を眺めていると、母が、「もう駅に戻りましょう」と言った。今まで黙ってついてきたけれど、ようやく疲れてきたらしい。これは良い傾向である。私の旅が過酷で退屈であるという印象を、もうひと押ししておきたい。私は地図で室蘭港に面した公園を見つけた。おばちゃんに聞くと、ここから徒歩で15分くらいだという。ならば港を眺めて帰ろう。私は母を促して歩き始めた。
観光窓口のおばちゃんは室蘭港について、「もう客船も来なくなって寂れたし、たいした物はない」と言っていた。確かに港に船は少なく、公園も地元の人々のために作られたようで、犬の散歩をする人がいる程度だ。しかし、この公園からの港の風景は意外と良かった。室蘭港を見渡し、対岸に室蘭市の町並み、その向こうには標高911メートルの室蘭岳が堂々たる姿を現していた。これは室蘭ならではの風景。印象に残る景色である。
入江臨海公園からの眺め。
ここは入江臨海公園といって、室蘭市で唯一、噴水のある公園だという。歩き回れば昔の航路標識ブイ、北海道開拓に貢献したアメリカ人ホーレス・ケプロンの記念碑、大洗港との有効記念碑、明治天皇聖跡碑、文学碑などがある。室蘭港の歴史を凝縮したような場所だ。私はひとつひとつ眺めて満足した。帰りの道は運動公園に沿っていて、昔の灯台や現代作家の彫刻などがある。そこも楽しい散歩道であった。
私は母に得意げに話しかけた。
「もう一歩先へ進んで、新しい景色を見つける。これが旅の楽しさですよ」
母は、「そうね」と一言。納得してくれたようである。
-…つづく
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