第245回:流行り歌に寄せて No.55 「星はなんでも知っている」~昭和33年(1958年)
私は年齢的に「ロカビリー三人男」が活躍していた様子を、リアルタイムでは知らない。ミッキー・カーチス、山下敬二郎、そして平尾昌章(現在では昌晃)の勇姿は、後に随分時が経過してから、モノクロの映像フィルムで観たことがあるくらいである。
その映像のほとんどが『日劇ウエスタン・カーニバル』の舞台で、彼らは昭和33年2月8日の第1回から出場している。そもそも、いわゆる「二八(にっぱち)」の営業的にも暇な時期に"若い子にウエスタンでも演らしてみたら"という渡辺プロダクションの渡辺美佐の一声で始まったこのカーニバル、その後20年、ナベプロの威光を示すように続いていった(初回開催日に因んで、2月8日を「ロカビリーの日」と制定されているようだ)。
今回の『星はなんでも知っている』は、同年の7月に発売された曲であるから、この年の夏、8月26日から行なわれた『第3回日劇ウエスタン・カーニバル』でお披露目されたはずだ。その時は、あの映像フィルムに映し出されている如く、少女たちの黄色い声の声援の中での熱唱だったと想像する。
「星はなんでも知っている」 水島哲:作詞 津々美洋:作曲 平尾昌章:歌
1.
星はなんでも知っている 夕べあの娘(こ)が泣いたのも
かわいいあの娘のつぶらな その目に光る露のあと
生まれて初めての甘いキッスに 胸がふるえて泣いたのを
〈台詞〉
あの娘を泣かせたのは俺らなんだ。
だってさ、とってもかわいくってさ
キッスしないでいられなかったんだ。
でもさ、でもお星様だって知っているんだ。
あの娘だって悲しくて泣いたんじゃない。
きっと、きっと、うれしかったんだよ。
2.
星はなんでも知っている 今夜あの娘の見る夢も
やさしいナイトがあらわれて 二人でかける雲の上
木ぼりの人形にぎって眠る 若いあの娘の見る夢も
Uh・・・Uh・・・
発売当時のこの曲のレコード・ジャケット。アロハっぽいシャツの上に薄いパープル色のVネックのスェーターを着て、左手の指に引っかけたツートンのジャケットを左肩に掛け、右手には煙草を持ったリーゼント頭の平尾昌章が、夜空の下、遠くを見つめている。
いかにもお洒落でかっこよく、女の子にはMMK(もててもてて困ってしまう)というタイプであり、とても生まれて初めてのキスをしてしまったことに、戸惑いながらも秘かに喜んでいる男の子には見えない!
と思うのはもてない男の偏見か。
さて、平尾は青少年時代、茅ヶ崎に住んでいて、塾高(慶應義塾高等学校)に通学がてらジャズ教室に通い、高校生にして有名女性歌手と知己となり、塾高中退後はウエスタンの人気バンドに加入する。典型的なお金持ちの不良様である。
彼は小坂一也のいる「チャック・ワゴン・ボーイズ」に入るが、小坂が抜けたために、バンド名は「オールスターズ・ワゴン」となる。そのバンドがジャズ喫茶で演奏していた時に、前述のナベプロの渡辺美佐と、映画監督・井上梅次に見いだされ、以前このコラムでもご紹介した、石原裕次郎主演の映画『嵐を呼ぶ男』に出演することになった(井上、石原、平尾、また慶應繋がりか、やれやれ)。そして、昭和33年の1月『リトル・ダーリン』でキングレコードからソロデビューを果たす。
その後、『星はなんでも知っている』と平尾自身の作詞作曲による『ミヨちゃん』の他は『ダイアナ』『恋の片道切符』など、海外のヒット曲のカヴァーを多く歌っている。それらには、みな「オールスターズ・ワゴン」の名が演奏者としてクレジットされている。
ロカビリーの衰退後、作詞が水島哲、作曲が平尾本人による『おもいで』が、昭和40年前後に札幌を起点にヒットし再び注目された。しかし、その後歌手としての活動は、昭和53年の畑中葉子とのデュエット曲『カナダからの手紙』までほとんど行なわれていない。
『おもいで』を布施明に提供して以来、その布施に歌わせた『霧の摩周湖』を初めとして、それからは夥しい数のヒット曲を作曲し、日本レコード大賞、日本歌謡大賞などの賞を実に多く受賞することになる。
私が知っているのは、歌手「平尾昌章」よりも、作曲家「平尾昌晃」としての顔の方が、やはり圧倒的に多い。
布施明はもとより、五木ひろし、小柳ルミ子は、平尾がいなければ間違いなく、ここまでの大歌手になれなかったと言えるほど、彼らに多くの名曲を提供しているのだ。
-…つづく
第246回:流行り歌に寄せて
No.56 「からたち日記」~昭和33年(1958年)
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