第241回:流行り歌に寄せて No.51 「有楽町で逢いましょう」~昭和32年(1957年)
私が昭和60年から14年半あまり、中央区の東銀座で会社勤めをしていた頃、メインでお付き合いしていた百貨店は、有楽町そごう(正式には「そごう東京店」という名称)で、外商の人々にはかなり懇意にしていただいた。
外商の担当者は、初めは明治出身、次は早稲田出身のいずれも体育会系の好漢で、確か私よりは5、6歳若いファイトあふれる若者たちだった。得意先会社への贈答品や、社内の永年勤続表彰の記念品など、いつも分厚いカタログを抱えては訪れる彼らと、あれやこれやと商品を選んだものである。
「有楽町で逢いましょう」 佐伯孝夫:作詞 吉田正:作曲 フランク永井:歌
1.
あなたを待てば 雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる
ああ ビルのほとりのティー・ルーム
雨もいとしや唄ってる 甘いブルース
あなたとわたしの合言葉 「有楽町で逢いましょう」
2.
こころにしみる 雨の唄 駅のホームも濡れたろう
ああ 小窓にけむる デパートよ
きょうの映画(シネマ)は ロードショー かわすささやき
あなたとわたしの合言葉 「有楽町で逢いましょう」
3.
かなしい宵は 悲しよに 燃えるやさしい 街あかり
ああ 命をかけた恋の花
咲いておくれよ いつまでも いついつまでも
あなたとわたしの合言葉 「有楽町で逢いましょう」
「フランク永井の『有楽町で逢いましょう』って、弊店のキャンペーン・ソングだったこと、ご存知でしたか?」そう聞いてきたのは、明治出身の方の担当者だったが、私はこの時、初めてその事実を知った。
「何でも、うちが大阪から東京へ進出してくるとき、物件を探すのに随分と苦労したそうですが、読売さんが有楽町の読売会館を快く貸してくださったんですって。当時はお隣の銀座のように賑わっていなかった有楽町に、何とかお客さんを呼ぼうとキャンペーンを張り、この歌もそのために作られたものだそうです。僕は観たり読んだりしていませんが、同名の映画や小説もあったようですよ」。
そう話してくれた時の表情を、私はよく覚えている。彼は背がスラッと高く、よく日焼けして笑うと白い歯が覗く。いかにも女性にもてそうな、カッコいい男性だった。一方の早稲田出身の方も背は高いが、こちらはどちらかと言えばおっとりしたお坊ちゃん顔で、誰にでも好感を持たれるタイプの男性だった。
ただ、「有楽町そごう」は、私が会社を辞めた翌年の平成12年には店を畳んでしまった。彼らは今どこにいるのだろうか。この歌を聴くと、まず彼らのことを思い起こしてしまうのだ。
さて、外商の彼の説明してくれた通り、この曲は昭和32年5月25日開店の「有楽町そごう」のキャンペーン・ソングとして作成されている。当時、そごうの豊原英典部長以下の宣伝部は、「有楽町高級化キャンペーン」と銘打った画期的な大キャンペーンを張る。時系列的に…
昭和32年4月 日本テレビにて「そごう」一社提供歌番組『有楽町で逢いましょう』放送開始
同年5月25日 有楽町そごう開店(雨にも拘わらず30万人以上来店)
同年11月 ビクターレコードより『有楽町で逢いましょう』発売
同年11月 月刊誌『平凡』に宮崎博史作の小説『有楽町で逢いましょう』連載開始
昭和33年1月 大映映画 島耕二監督『有楽町で逢いましょう』封切り
(主演は、京マチ子・菅原謙次、結婚前の川口浩と野添ひとみのフレッシュな
コンビの姿も、見ることができる)
当時のメディアを全て駆使した壮大なキャンペーンである。そもそも『有楽町で逢いましょう』とは、アメリカ映画のタイトル『ラスベガスで逢いましょう』から拝借したものだそうで、アメリカでもナンバーワンクラスの、派手で賑やかな街に因んだあたり、その意気や良し、と言う感じがする。
ところで、フランク永井の最初の吹き込みはモノラルで、前奏部はギターで演奏されていたが、5年後にステレオで再録音をしたときの前奏部には、オルガンが使われている。聴き較べてみると、微妙に曲の印象が変わっていて興味深い。
そして、この名曲は賑やかな開店日から数えて43年4ヵ月後の、平成12年9月24日、「有楽町そごう」の最後の営業日に店内に流れ続け、閉店セールが行なわれたそうである。
-…つづく
第242回:流行り歌に寄せて
No.52 「月光仮面は誰でしょう」~昭和33年(1958年)
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