「いま、それ取ったでしょう! 返しなさい。記念品じゃないんだから」と、運転士が中学生くらいの少年グループを叱った。"それ"は、乗車整理券である。名鉄三河線の廃止予定区間はディーゼルカーによるワンマン運転となっており、無人駅から乗車する場合は整理券を取り、下車するときに整理券を渡して運賃を精算する。都会の電車では見られない仕組みだから珍しい。しかし、整理券に駅名や路線名はなく、乗車駅を示す数字があるだけだ。どこでもこの様式だから、三河線に乗ったという記念にはならない。
乗車整理券は、その日の乗客数と運賃を集計する手段になっているはずだ。整理券の発行枚数に比べて収入が少なければ、運転士が疑われるかもしれない。だから、2枚取ったり、取っても支払わなかったりするお客がいると困るのだろう。
大手私鉄が運行するレールバス。
名鉄三河線は三河湾に近い吉良吉田駅から北上し、名鉄本線の知立を経由して、愛知県豊田市の北端の西中金に至る64.8kmの路線だ。この長さは名鉄本線の新名古屋-豊橋間とほぼ同じで、支線としては堂々たる規模である。ただし、知立を境に海側と山側で列車の運行は分離されている。実質的には2本の支線として利用されているようで、名鉄の案内地図でも色分けされていた。
その三河線の両端区間が、2004年3月末で廃止される。海側はいま私が乗っている吉良吉田-碧南間の16.4kmで、山側は猿投-西中金間の8.5kmである。今回の旅のきっかけはこのふたつの区間だった。しかし、豊橋鉄道、豊川稲荷、蒲郡と、辿り着くまでにかなり寄り道をした。今日はかなり長い一日である。乗車距離も長い。
私鉄として全国3位の路線長を持つ名鉄は、ひと言で特長を表せない。パノラマ特急が行き交う幹線もあれば、ここのようにディーゼルカーのローカル線もある。吉良吉田-碧南間はもともと電化されていたが、経費節減のためにレールバス化された。まだ架線柱が残されたところも多いが、架線は撤去されている。
沿線風景は開けており、住宅も多い。しかしこの区間は赤字だという。やはり自家用車の利用が多いのだろう。大都市近郊のベッドタウンに似ているが、家は大きく駐車場も2台分以上ある。アパートにも広い駐車場が付属している。建物の隙間が大きいけれど緑は少なく、アスファルトの比率が高いようだ。
沿線は住宅が多く、近郊路線のようだ。
運転士に叱られた少年たちはおとなしくなり、「景色のいいところなんてもう無いね」と言って座席に座った。これで車内の席がほぼ埋まった。地元の利用客が数人いるほかは、私の同類でお別れ乗車に来た鉄道ファンたちである。広島の可部線に比べるとファンの人数は少ないが、まだ廃止まで1ヵ月半もあるからこんなものだろう。名古屋から日帰りできるから、小中学生や高校生の鉄道ファンも訪れやすい。3月に入ればもっとファンが増えるにちがいない。
嬉々として乗車を楽しむ人々とは対照的に、地元の利用客はうつむいている。クルマ社会で鉄道を選ぶにはそれなりの理由があるわけで、代替バスが走るとしても不安に違いない。運転士は少年達を叱ったあと、ふてくされるように肩を斜めにして運転している。彼にしたって、馴染んだ職場を離れるのだ。心中は穏やかでないはずである。そんな心境でいるときに、マナーの悪い鉄道ファンに職場を荒らされてはおもしろくないだろう。私は彼に同情した。
少年たちが、おもしろい景色は無い、と言ったけれど、そんなことはない。私は鞄から地図帳を取り出した。旅に出るとき、車窓からみえる景色を確認するために地図帳を携帯する。私が愛用する地図帳は、オートバイでツーリングする人に向けて作られた『ツーリングマップル』シリーズだ。道路が太く色分けされており、鉄道線路は細くて目立たないけれど、道路から見える山や川の名前や景勝地が載っているし、鉄道の主要トンネルの名前もある。そしてなにより、私はバイクにも乗るから一石二鳥というわけだ。
矢作川を渡る鉄橋。
その地図帳によれば、中畑駅の先に矢作川を渡る鉄橋がある。全長は約700メートルで、たいした規模ではないけれど、この橋が路線の廃止を決定させたと言ってもいい。80年代から始まるローカル線の廃止は、ただ収支が赤字だという理由だけだった。しかし、現在のローカル線廃止は収支だけの問題ではない。老朽化された鉄橋やトンネルを付け替える費用を捻出できないからである。
赤字解消のためなら、沿線自治体の補填や沿線住民の"乗って残そう運動"でなんとかなるかもしれない。ところが橋の架け替えとなると費用は膨大だ。将来的に投資する価値があるか?
という問題に直面すれば、私が市長だったとしても、道路整備に予算を投下せざるを得ないと思う。鉄道は鉄道会社しか使えないが、道路はバス会社だけではなく、自転車や歩行者も使えるのだ。
私は運転台の真横に移動して前方を眺めた。さきほどまで少年たちが占領していた場所だ。中畑駅を出ると前方の視界か開け、赤茶けた色の鉄橋が現われた。アーチ状の架線柱が並ぶ。こんなふうに鳥居がたくさん並んだ神社があるな、と思う。骨組みだけが残された透明なトンネルのようで、珍しい構造だ。まちがいなく、ここが名鉄三河線の海線のハイライトシーンだと思う。
鉄橋を渡る間、私は車内をちらりと振り返る。少年たちが、うわ、すごい、と話している。勝ったな、と思った。なんのことはない、私も大人げない鉄道ファンのひとりであった。
碧南駅は工業地帯の一角にある。
-…つづく
■第43回~47回
の行程図
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