第1回:さよならミヤワキ先生。
更新日2003/04/10
紀行作家の宮脇俊三さんが亡くなった。
日本の鉄道ファンで宮脇さんの名を知らない人はいないだろうし、昭和53年に出版された『時刻表2万キロ』の著者だと言えば思い出す人も多いはずだ。国鉄路線を全線踏破した旅行記は、ちょっとした鉄道旅行ブームを引き起こした。赤字続きの当時の国鉄は、ここぞとばかりに『いい旅チャレンジ2万キロ』キャンペーンを展開した。この本を読んで、国鉄全線踏破を目ざした人も多い。私もそのひとりだった。
私も宮脇さんと同じように、鉄道好きな子供のまま大人になった。男の子が乗り物を好きになる過程はヒナ鳥の“すりこみ”に似ている。父親がクルマ好きならカーマニアになり、父や兄がバイクをいじっていればバイク乗りになる。近所に飛行場があれば飛行機を追う。私の実家は東急池上線の線路のそばで、退屈なときはいつも電車を眺めていた。だから今でも電車が見えると落ち着く。住まい選びも電車がみえる景色を条件にした。
『時刻表2万キロ』が出た時、私は小学5年生だった。その頃の私たちはブルートレインブームの洗礼を受けていた。ピカピカの青い客車の中にはベッドや食堂がしつらえてあって、眠っているうちに遠くへ連れていってくれる。あれに乗りたい。大人になったら好きなだけブルートレインに乗ろう、と思った。遠くに旅行に出かけること自体が夢だった。そんなときに『時刻表2万キロ』が出た。電車に乗り、駅で乗り換えていけば、日本中どこにでも行ける。家と学校だけが生活圏の小学生にとって、“日本中”はとてつもなく大きい。いまの子供たちがテレビゲームで冒険するように、私は時刻表を眺めて、机の上で空想の旅を楽しんだ。
初めての汽車旅は小学6年になる年の春休みだった。
鉄道雑誌のまねをしてノートに紀行文を書いていた。
そして私は旅を始めた。東急電鉄に全部乗り、山手線を一周した。高校時代になると、周遊券を握って北海道や九州へひとり旅に出かけた。宮脇さんを真似て紀行文も書いた。中学生にしては大人びた作文が目立ったらしく、品川区のなにかのコンクールに入賞した記憶がある。高校時代の旅は『いてふ台』という学校雑誌に『汽車旅日記』と題して投稿し、2年連続で採用された。勉強は苦手だったけれど、その作文は現代文の先生にずいぶん褒められた。私が文章書きを志す原点だと思う。
高校は年に1回だけ発行される雑誌に採用された。この雑誌は学校の伝統として明治時代から続く伝統ある文芸誌を継承したものだ。高校時代に自慢できたことはこれくらい(笑)。
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宮脇俊三さんの訃報を、私はインターネットのニュース記事で知った。仕事中のちょっとした休憩のつもりで開いたWebサイトだった。大きな喪失感。会ったことはないけれど、私の旅に流派があるとすれば、間違いなく師匠になる人だ。宮脇さんの著書を思い出しながら、私は自分の旅を振り返った。そして、17歳で受験勉強を始めてから今日まで、旅の記憶がとても少ないことに驚いた。のんびりと列車に揺られて景色を眺める。そんな旅から、私はずいぶん遠ざかってしまった。
大学時代は軽自動車で峠道にアタックしていた。社会人になると仕事のほうが面白くなった。コンピューターと人がおりなす文化や時代のありようは大いに刺激的で、今も興味は尽きない。会社を辞めてフリーライターになったとき、私の交通手段は400ccのスクーターになっていた。これもまた楽しい乗り物で、私は友人たちと
BigScooter.com なるサイトを立ち上げた。新しい“二輪文化を作る道具”だと思っている。そんな私の旅行は主にツーリングになり、通勤すらしない私にとって鉄道の旅はますます遠くなり、20年も経ってしまった。
Webサイトで宮脇さんの情報をたどっていくうちに、私の心の奥で眠っていた旅の虫が騒ぎ出した。訃報は悲しいものだ。しかし、この知らせは宮脇さんからのメッセージかもしれない。宮脇さんは、彼を慕う人々に「そろそろ鉄路の旅に戻っておいで」と言い残して、星へ向かう汽車に乗られたのだ。
我に帰って仕事を済ませて、私は気晴らしに散歩に出かけた。書店で、まだ読んでいない宮脇さんの著作を2冊。そして、時刻表を買って帰った。
第2回:17歳の地図、36歳の地図