広島電鉄は広島市の南側に全長約35キロの路線網を持っている。本線は広島駅から大通りを西広島(己斐)まで、そこから宮島口が専用軌道の宮島線だ。これがいわば大動脈で、途中から江波、横川、白島、広島港に至る支線があり、繁華街から広島港への短絡線もある。ただし、路線名と運行ルートは一致しない。ほとんどの路線が広島駅前を起点とし、バスのように○番系統と名づけられたパターンがある。運転頻度は高く、どこでも待たずに乗れる。
新型車両で路面電車から
LRT(Light Rail Transit)へ脱皮する。
私が乗った電車は2系統の広島駅前行きだ。専用軌道区間なのでスピードが出ているけれど、上下左右によく揺れる。路面電車用の車両だから床下のスペースが小さく、サスペンションの作りが簡素なのだろう。あるいは舗装された路面区間に乗り心地がいいように、固めに調整してあるのかもしれない。軌道線は砂利敷きで、線路がよくたわむ。砂利で固めているけれど、電車の重量だとクッションになる。踏み切りのそばで見ているとレールが上下するのだ。
電車は、私が今朝乗ってきた山陽本線と並んで走っている。遅いからJRの電車に抜かれてしまうけれど、日なたの席に座って気持ちがのんびりしているから、あまり悔しくない。それどころか、初めて訪れた街を眺めるにはちょうどよい速度だ。小さな停留所に何度も停まり、そのたびに何人か出入りする。家事を済ませて美容院に行く奥さんや、ちょっと遠くまで散歩に出かけるお年寄り、図面を眺める作業着の御仁、携帯電話の操作に忙しそうな茶髪の少女……。のどかで平和なひと時である。
運転台から前に視線を移すと、いままでの停留所とは格差のある駅に近づいている。広電西広島(己斐)駅だ。その立派な駅を出ると、いよいよ路面電車となる。クルマと同じように信号で停まり、トラックやバスも併走する。新己斐橋を渡ると広島市街が開けて、ようやく広島に来た、と実感した。
昔ながらの車両も多く、
路面電車の博物館のよう。
大通りを直進するかと思えば、観音町で細い道に入った。おそらく1910年(明治43年)の敷設当時はこちらがメインストリートだったのだろう。建物は新しいものもあるけれど、佇まいに懐かしい。土橋という停留所で乗り換えて江波へ行き、そこから折り返して、今度は横川へ向かう支線に直通する電車に乗る。住宅と商店が立ち並び、ありふれた普通の生活が繰り返される風景だ。それが余所者にとっては居心地の悪さも感じてしまう。それが路面電車の日常であって、他所者が文句を言う筋合ではない。
しかし本線に乗り換えて大通りに戻ると、日常の隙間から、衿を正して相対するべき『旧広島県産業奨励館』が見える。原爆ドームとして知られ、世界遺産に指定された残骸だ。路面電車にも、そのままの名前で"原爆ドーム前"という停留所がある。車窓から眺めて済ませるわけにはいかない。
鉄道の乗りつぶしは、その地方で人が暮らす場所を隅々まで訪ね歩く旅になる。人のいるところに歴史があり。その歴史には、忌まわしき戦争も刻まれている。したがって戦後生まれの私が、のんびりと旅をしていても、その土地の戦争の記憶に直面することがある。飯田線では兵器工場で労働奉仕した人々と相席になったし、韓国では同じ言葉を話す国同士の軍事境界線も見た。平和な時代に生きる者であっても、そこに感じることがある。だから元より、ここには立ち寄るつもりでいた。
原爆ドームは中に入れるところかと思っていたが、実際には近づいて眺めるだけの場所である。生垣に隠れるように、最新式の赤外線防犯システムがいくつか設置されている。悪戯防止というだけではなく、危険防止の意味もあるのだろう。よく見ると内側から鉄パイプで何重にも補強されており、あたかも崩壊寸前なのであった。どこぞの大仏のように、建物で覆ってしまえば安心だと思うけれど、青空の下で、当時と変わらぬ姿で存在すること、そして少しずつ朽ちていくことに、きっと意味があるのだろう。
補強工事とセキュリティシステムに守られた廃墟。
そのまま平和記念公園を散歩して、敗戦記念日にテレビに映される原爆死没者慰霊碑を眺め、誘われるように平和記念資料館に入った。地階ではちょうど路面電車と原爆に関する絵画展が開かれていた。被爆者が当時の記憶を描いたもので、画家の作のように整ったものはないけれど、筆致や色遣いがなまなましい。そのなかに写真が一点あり、現在の市街を行く路面電車の姿があった。なんと、被爆しつつ損傷を免れた電車が、いまでも現役で活躍しているという。今日は電車を見るたび、何回もシャッターを押したけれど、はたしてこの電車はあっただろうか。
階上には。子供の頃に教科書で見た、"人の影が残る石段"や"被爆した子供の学生服"などの実物がある。原爆症に苦しめられながら、その苦しみを記録に残そうとした人もいた。私は展示のいくつかに足を止めた。失礼ながら興味を引かないものあるけれど、なるべく静かに通り過ぎた。ふとまわりを見渡せば、学生服や外国からのお客さんの姿も多い。年齢、国籍に関わらず、誰の目も伏せがちだが、しっかり見届けようという意思を感じる。今日中に広島電鉄を完乗したいから、ここは駆け足で眺めようと思っていた。しかし、展示に引き込まれていく。
くまなく順路を辿ると、原爆、戦後に関わらず、現代の核実験や原子力に関する事故などの資料もある。事実を淡々と伝えるのみに留まり、核はすべてダメ、という主張はない。エネルギーの可能性を認めつつ、悪用しないでほしいと願っているように思う。展示ホールの柱には、歴代広島市長の声明文がプレートになって貼り付けられている。核爆破実験をした国に向けて、その都度、意義を呈しているのだ。その枚数の多さと、同じ文面のコピーではないことに驚く。内容は同じでも、文面が少しずつ違うのだ。同じ意味で、同じ趣旨で作る文章でありながら、自動的な作業ではないと証明するために、多少の手間をかけているのだ。物書きのはしくれとして、その文案の苦心はよくわかる。
出口に近いところに、ちいさな注意書きがあった。平和記念公園の周辺では、戦争に関する募金活動やデモを禁じているとのことである。それはきちんと守られて、慰霊碑は静寂を保っている。声高くする者はなく、ポスターやビラ撒きもない。見えない意思が厳粛に守られているようで、胸が詰まる。
広島は何を訴えているのだろうか。
ここにあるものは、時の流れに震える虚塔と、忌まわしき記憶。そして、それを残し続けようという、静かで、堅く、そして尊い意思のみである。
広島は、ただ静かに祈り続けている。
撮り貯めた写真の中に "被爆電車"
があった。
-つづく…
■第37回~41回
の行程図
(GIFファイル)