■新・汽車旅日記~平成ニッポン、いい日々旅立ち


杉山淳一
(すぎやま・じゅんいち)


1967年生まれ。東京出身。東急電鉄沿線在住。1996年よりフリーライターとしてIT、PCゲーム、Eスポーツ方面で活動。現在はほぼ鉄道専門。Webメディア連載「鉄道ニュース週報(マイナビ)」「週刊鉄道経済(ITmedia)」「この鉄道がすごい(文春オンライン)」「月刊乗り鉄話題(ねとらぼ)」などWebメディアに多数執筆。



第1回:さよならミヤワキ先生。
第2回:17歳の地図、36歳の地図
第3回:駅は間借り人?
-都営地下鉄三田線-

第4回:名探偵の散歩道
-営団南北線・埼玉高速鉄道-

第5回:菜の花色のミニ列車
-埼玉新都市交通ニューシャトル-

第6回:ドーナツの外側
-東武野田線-

第7回:踊る猫伝説
-横浜市営地下鉄-

第8回:相模原銀河鉄道
-相模鉄道いずみの線・本線-

第9回:複々線から単線へ
-特急『りょうもう1号』・東武鉄道桐生線-

第10回:追悼と再生と
-わたらせ渓谷鉄道-

第11回:赤城山遠望
-上毛電鉄-

第12回:エキゾチック群馬
-東武伊勢崎線・小泉線-



■連載完了コラム
感性工学的テキスト商品学
~書き言葉のマーケティング
 
[全24回] 
デジタル時事放談
~コンピュータ社会の理想と現実
 
[全15回]

■更新予定日:毎週木曜日

 
第13回:エキゾチック群馬 -東武小泉線・佐野線-

更新日2003/07/03


西小泉駅の佇まいは昭和時代の街の栄華を感じさせる。駅舎やホームの屋根に風格があり、2両編成のローカル電車の駅らしくない。東小泉駅も貨物列車用の留置線の名残らしき空き地があった。「ト」の字の路線も貨物列車の都合でできたような気がする。旅客路線だけが必要なら、この支線は作らないでもよかったはずだ。乗客は太田から西小泉は、館林経由でも苦にならなかっただろうし、太田-東小泉間はバスで補完できる距離だ。貨物路線を作り、地元へ便宜を図るために旅客列車を運行したのではないか、と予想する。


昭和時代の駅に昭和の電車が佇む。

インターネットで調べると、果たしてその予想は正解だった。東武小泉線は昭和16年に開業した。路線敷設の目的は軍需輸送だった。太田や小泉には中島飛行機があり、第二次大戦で活躍した九七式戦闘機、加藤隼戦闘隊で有名な一式戦闘機などを生産した。小泉線はその中島飛行機へ物資や人材を輸送するために建設されたのである。地図で見ると、館林から延びた路線が西小泉駅の直前で南に曲がる。その先は妻沼という町だ。妻沼と熊谷の間は、かつて東武熊谷線があった。東武小泉線は熊谷線と繋がって、太田と熊谷を結ぶ計画だった。

私は地図ではなく、見やすさを重視してデザインされた鉄道路線図ばかり見ている。だから、高崎線の熊谷と東武線の太田を鉄道で結ぶという発想には至らなかった。この二大都市をつないでおけば、東武熊谷線は廃止されずに済んだかもしれない。残念だが、当時は戦時中の物資不足で利根川に橋をかけられなかった。戦闘機の名前はなんとなく知っているけれど、第二次世界大戦は歴史やゲームの世界であって、私には現実味がない。のんびり鉄道に揺られて、平和な時代を満喫していたつもりが、ふいに戦争の所縁を見せつけられて戸惑う。戦後に生まれても歴史から逃れることはできない。西小泉駅の向こうには、橋をかけても超えられない時間が横たわっている。

西小泉の駅前では、黒い服を着た南米系の人々がいた。なにやらチラシを配っている。私が近寄っても笑顔は消えなかったけれど、微笑まれるだけでチラシは貰えなかった。教会でイベントがあるらしい。再会を喜び抱擁で挨拶する中年男性もいた。かの地の流儀であろう。駅前の地図を見ると、電機メーカーの大きな工場が2つもある。かつて戦闘機を作ったところだ。この工場が彼らの職場に違いない。

折り返し館林行きの電車に乗る。モーターがうおぉんと懐かしい音を出す。私が子供の頃は、都心の電車もこんな音がした。外観上は他の電車と差異がないようだが、足回りは古いようだ。軍需輸送を担うという大儀のもとで作られた路線でも、現在はローカル線である。都心のスピードに取り残された、古い電車があてがわれるのだろう。

古くて懐かしい電車は、館林から乗った東武佐野線にも走っていた。ホームで営業しているラーメンを食べようかやめようかと思案していたら、東武佐野線の電車が遠くから静かにやってきた。静か過ぎるし、いままでの電車と顔つきが違う。よく見ると、かつて急行『りょうもう』号として走っていた車両である。私が30年前に乗った赤い急行電車が、白地に青帯に塗り替えられて、ローカル線の各駅停車になっていた。車内も2人掛けの柔らかなシートが残されている。中古の電車とはいえ、なんと贅沢な各駅停車だろうか。景色は小泉線や太田あたりとたいして変わらないはずだ。しかし大きな窓から見ると、14型テレビと36インチワイドテレビくらい迫力が違う。


かつての花形車両がローカル路線でがんばる。


30年前の車両とはいえ、各駅停車としては贅沢な車内。

東武佐野線は、館林から佐野市を経由して、足尾山地の裾野にある葛生を結ぶ22.1キロメートルの路線だ。この路線の成り立ちも貨物輸送である。豊富な石灰石と、コンクリート建材などに使用されるドロマイトと呼ばれる鉱石が産出されている。葛生駅の開業はなんと明治27年。最盛期には葛生駅からさらに谷の奥へ向かう3つの貨物線が伸びていた。しかし、すでにほとんどの貨物輸送はトラックへシフトし、現在は旅客が中心でとなっているようだ。

大きな窓が映し出す景色は夕刻の田園地帯で、垂れ込めた雲の下から沈みかけの太陽が顔を出す。陽射しが、銀色のタンクをキラキラと輝かせる。カルピスと書いてある。白地にブルーの文字が、肥沃な土地と酪農と豊かな水資源を暗示している。次に見える大きな建物は、石油タンクが並ぶオイルターミナルだ。タンク型の貨車と入れ替え用の機関車が見えた。まだ貨物輸送は行なわれているようだ。

栃木県に入る直前で渡良瀬川を超える。ここまで降りてくると川幅も広く、流れも静かだ。太陽が反射して眩しい。今朝の車窓、素晴らしい渓谷の風景を思い出す。ずいぶん前の旅のようだ。山が少しずつ近づく。列車が地面から持ち上がり、JR両毛線の線路を超える。高架線から佐野の街を見下ろして、ぐるりと迂回して佐野駅に到着。飛行機が街の中心の空港に降り立つような眺めであった。


渡良瀬川の向こうに夕陽が沈む。

葛生駅には、貨物列車を留置したと思われる広大な敷地が残っている。成田空港の建設に使われた砕石もここから貨物列車で運ばれた。しかし駅前は寂しい。改札口のそばに、猫の額ほどの空き地があり、タクシーが1台身を寄せていた。そのタクシー会社の看板を掲げた建物がある。けれども雑然として、人の気配がない。廃墟のようである。この駅の主役は貨物であることはわかる。しかし、150年以上も乗客は通用口のような駅舎を出入りしていたのだろうか。東武鉄道には立派な駅舎を構えている駅が多いが、それらに比べて葛生は冷遇されている。町外れに所在している点を考慮しても寂しすぎる。大きな観光案内図もあり、ハイキングコースもあるようだ。鉄道よりも、クルマで来る人のほうが多いのかもしれない。

帰りの列車を1本遅らせて散策しようかと悩んだけれど、景色が心細くなったので帰ると決めた。寂しい夕暮れの街を歩くより、30年前の急行電車が名残惜しい、という気持ちが強い。ふわふわのシートで、夕陽と雲と闇が作る空模様を眺める。しかし旅の気分でいられた時間はここまで。館林からの浅草行きは、ごく普通の通勤電車に黙って揺られているのみである。なんとなく、まっすぐ浅草に戻るのも惜しくなり、西新井で降りた。東武大師線のたったひと駅を往復し、さらに開通したばかりの押上行支線に乗り、そのまま営団半蔵門線の新規開業区間に入った。今朝、特急電車でまたいだ隅田川の下を走っていく。私は黒い車窓を見ながら、渡良瀬側の眺望を思い出していた。


2003年6月1日の乗車線区
JR:0.0Km 私鉄:118.2km

累計乗車線区
JR:15,043.0Km 私鉄:2025.0km

#累計乗車線区の私鉄は、2002年分の記入漏れ(42.8Km)を追加しています。