週末の台風が残暑を吹き飛ばしてくれたらしい。窓を開ければ、空は青く、澄んだ冷たい風が入ってくる。旅にには最も適したシーズンが到来した。出かけなければ損だ、という気がする。新宿を10時発のロマンスカーに乗れば、昼までに箱根登山鉄道を踏破できる。せっかく箱根に行くなら、ケーブルカーとロープウェイを乗り継いで芦ノ湖へ行こう。そこから先は、時刻表の地図によると、バスを乗り継いで河口湖へ行けそうだ。河口湖からは富士急行に乗れる。大月から中央本線で帰る。これがよさそうだ。時計の針は9時を指している。私は旅程表をプリントし、慌てて家を出た。新宿駅に9時50分に着き、発車5分前に特急用ホームに立った。
小田急ロマンスカー。発車5分前に間に合った。
このロマンスカーは先頭車両が展望座席になっている。一度あの席に座ってみたいと思うけれど、1ヵ月前から手配しないと買えないだろう。あそこはずっと前から箱根行きを楽しみにして、手間ひまをかけて旅行計画をたてた人のためにある。発車7分前に買った私の座席は、前から3両めの通路側だった。窓際がいいなどと贅沢は言えない。座席があっただけでもありがたいと思う。見渡したところほぼ満席で、観光客以外に所要客も目立つ。今日は秋分の日で、お墓参りに出かける人も多いはずだ。
景色を見るなら窓際の席が一番いいけれど、通路側の席も悪くない。両側の景色が見やすいからだ。窓際で見える景色を通路側から見ると、7掛け程度の視界だろうか。しかし、通路側では反対側の景色も6掛け程度の視界で見える。ロマンスカーは窓が大きいので両側の景色が楽しめる。窓際に座ると反対側の景色は見づらい。
だから通路側でも不満は無いのだが、困ったことに、左側の乗客たちはみなにカーテンを引いてしまった。午前の陽射しが差し込んで眩しいのだろうか。携帯電話を操作したり、箱根のパンフレットやガイドブックを開いたりしている。小田急の車窓は都心から山岳へ向かう変化が楽しいのに、なぜ景色を見ようとしないのだろう。約1時間のショータイムなのに、幕を降ろしたまま過ごすとはもったいない。
仕方ないので右側の7掛けの車窓を眺める。ビル街から住宅密集地帯を抜け、多摩川を超えると丘陵地帯を縫い、相模大野を過ぎると田園地帯へと移り変わり、丹沢山系や箱根山が威容を示す。小田原に近づくにつれて駅の間隔が長くなり、ロマンスカーの速度が上がっていく。特急らしい走りになってきた。山間を抜け、再び住宅が目立ちはじめる。小田原市の通勤圏に入ったようだ。
小田急の小田原駅は天井が高く、風格を感じさせる。『スーパーはこね13号』はここからさらに箱根登山鉄道に乗り入れて、4つ目の箱根湯本駅まで行く。小田急は特急だけではなく、新宿発の急行電車も箱根湯本まで乗り入れる。むしろ休日の日中に限れば、箱根登山鉄道の小田原-箱根湯本間は小田急の電車しか走らない。起点駅から締め出された登山電車は箱根湯本から先だけを担当する。
箱根湯本駅からは登山電車で。
箱根湯本からは2両編成の登山電車に乗る。長編成のロマンスカーの客がすべて乗り換えたらすし詰めになりそうだが、大半の乗客は駅から出たようだ。湯本自体が大きな温泉町だし、各方面へのバスも出ている。湯本は東海道沿いの宿場町として、鎌倉時代から発展した由緒ある温泉場だ。駅前広場は大規模には見えないが、ここから散在する山間の温泉場に通じるのだろう。
登山電車はそのターミナルを見下ろすように、いきなり急勾配を上って行く。線路際の標識は20パーミルと書かれている。1,000メートル進むと20メートル上昇するという意味だ。車ならしばらくセカンドギアで引っ張るしかなさそうだ、と思っていると、車内放送で20パーミルを説明しだした。観光路線らしく、ときおり沿線を説明してくれるようだ。登山鉄道の最急勾配は80パーミルで、この急勾配は国内で1位。世界で2位の記録だという。80パーミルの区間では、運転席と車掌席の高低差が2メートルを超えるという。
山間をぐいぐいと登る。さっき渡った鉄橋が見えた。
箱根湯本駅の標高は95メートル。終点の強羅駅の標高は553メートル。登山電車は460メートルも登る。カーブで勾配を迂回するため、直線で結ぶと5キロメートルの距離が8.9キロメートルになる。急カーブが連続し、谷越えの鉄橋は31ヵ所、トンネルは12ヵ所。大正8年の技術では大規模な工事である。
急カーブでも曲がりきれない区間は、進行方向を逆転させて折り返して上がっていく。これはスイッチバックと呼ばれており、登山鉄道には3ヵ所設置された。スイッチバックするたびに、運転士と車掌が前後の車両へ移動する。二人とも運転士にすれば交代の手間が省けそうだが、そういうわけにはいかない事情があるのかもしれない。
スイッチバックの信号所で上り下りの列車がすれ違う。
3つのスイッチバックが終わると、こんどは急カーブの連続だ。車輪がレールと摩擦してキイキイと鳴っている。線路の磨耗を防ぐため、各車両とも水を撒きながら走るという。車両が小さい理由も、急カーブが多いためだ。なんだか工夫だらけで、創業者が意地で鉄道を通したような感じもあるが、無理した甲斐があって景色はとても良い。
いまでは各駅ともクルマで行けるけれど、道路からは山林をわけ入っていく車窓は楽しめない。夏の紫陽花、秋の紅葉など、季節によって登山電車の車窓は変化するという。何度も箱根に行く人の気持ちがわかる気がした。私は同じ場所に何度も行くより、少しでも多く違う場所へ行きたいと思っているが、違う季節にまた登山電車に乗りたいと思った。
湯本から35分で強羅駅に着く。ほかの乗客の流れに乗ると、案内の声に急き立てられるようにケーブルカー乗り場に向かった。今回は途中にバスの乗り継ぎを挟んでいるので時間が読みにくい。急いで行けるところは急いでおかないと、後悔しそうな気がする。
登山電車が名残惜しい、けれど時間も惜しいのだ。
-…つづく
■第24-25回
の行程図
(GIFファイル)