第31回:モロッコの南京虫とシラミ その2 【最終回】
マラケシュのどこで、どのように出会ったのか記憶にないのだが、カナダ人のケン、イタリアはフィレンツェからやってきたラファエロと一緒に宿を取ることになった。
当時のマラケシュは一種ヒッピーの聖地のようになっていて、モロッコ産のハシシ(hashish;マリファナ樹脂を固めたもの)を思い切り吸うのが目的のヒッピー崩れが詰め掛けていた。混沌としたイスラム社会に理想郷を夢観ていたのかもしれない。
マラケシュ、ジャマ・エル・フナ広場(クリックで昼の光景)
確かに旧市街、バザール前の広場は『気違い広場』と呼ばれるだけのことはあった。何百軒という屋台が夜店を出しているのだが、屋台レストランといえば聞こえはいいが、大鍋一つを据え、一品料理の極み、あるのはその大鍋に入っているスープ、シチューの類だけ、それに一切れのパンが付いてくるのを長い木のベンチに肩肘寄せ合ってかっ込むのだ。
どこも一品料理で、串焼き屋はその一品だけ、ヤギのヨーグルトのようなドロドロ屋もそれだけ、そんな店がひしめき合っているのだ。普通の店というか、物売りも多く、いずれも極限のミニマリスト商売で、香辛料屋、オレンジ屋、卵屋、古着屋、鶏を3羽だけ路上に置いて、いかにも田舎から出てきたばかりの爺さんが売っていたりする。
騒音から逃れるように10~20メートル離れた木立の下に人だかりがしているので近寄ってみると、古老がお話をしており、それを取り囲むように主に子供だが、中にはいい大人も真剣な眼差しで、耳をソバダテテ聞き入っているのだ。もちろん私にはストーリーなど全く分からない。時折、一斉に弾けるように笑い、また食い入るように古老のオハナシに集中するのだ。紙芝居を絵抜きでやっているといえば多少は当たっているだろうか。アラビアンナイト、一千一夜物語の国に来た思いがしたことだ。
もともとモロッコに行ったのはイスラムの世界に接したかったのと、“月の砂漠を~~”のイメージにアテラレて砂漠を見たかったからだ。スペインからそんなに近く、しかも安いフェリーがあることすら知らなかった。マドリッドのユースホステルにタムロしていた先達の話、忠告を聞き、気軽に出掛けたのだった。
私は基本的にいつも一人旅をしてきた。身の回りの安全、盗難を考えると、複数で移動すべきだと言われている国や地方でも一人で行動してきた。もともと、マラケシュの安宿の一つ部屋に一緒に寝たというだけの縁だったカナダのケンとフィレンツェのラファエルは、私が砂漠を観にザゴラ(Zagora)へ行くと言ったところ、彼らも一緒に来ると言い出したのだった。
ケンはカナダの森林レンジャーで首にグリズリー(灰色熊)の爪のペンダントを皮ヒモで付けた大男で、ラファエルの方はジャーナリズム専攻の学生で、二人はモロッコに入ってからの道連れだった。性格も嗜好も全く違う二人が一致しているのは、ハシシへの傾倒だけだったと思う。
ザゴラ市内のオアシス地帯(クリックで砂漠地帯)
アトラス山脈を越え、期待していた“月の砂漠”が広がる…ことはなかった。山も瓦礫なら、ザゴラの町(村より少し大きい程度かな)も乾いたホコリだらけだったし、歩いて眺望が効く丘陵に登ってみたが、果てしなくうねる瓦礫の平原が続いているだけだった。
さすがザゴラまで来ると、バス停にたむろし、バスが着くなりワッとばかり攻めてくる物売り、客引きの数も減り、しつこさもなくなる。ケンとラファエルは、フランス語の使える地元の人を見つけてきて、商人宿とでも言うのだろうか、簡易宿泊所へ案内させた。
ゲートをくぐると細長いパティオがあり、それを挟んで両側に5、6部屋ずつ部屋が並んでいるところにクダンのモロッコ人が案内してくれたのだ。どの部屋もドアだけで、光取りのための窓がなく、当然のことだが電気もない。暗くなるまで外で過ごし、暗くなったら寝ろ…ということなのだろう。
部屋にはベッドがなく、藁のマットレスと言えば聞こえがよすぎる、藁を縛り、その上に厚手の袋を被せただけの寝床がコの字型に床に直接置いてあるだけだった。宿泊料が激安だから、私はこの宿で十分だと思った。ところが、ケンとラファエル、特にラファエルの方が、フランス語で激安の宿をさらに値切り始め、それに応じない宿の主に恐らくハッタリで、それなら他を探すから…と引き留められることを期待して宿を後にしたのだった。宿の親父は彼らを引き留めず、勝手にしろといった風に肩をスクメ、何かアラブ語で彼らを罵ったのだった。
私は一人になれたことを喜び、そこに留まることにしたのだった。ボラレないかと常に恐れ、値下げ交渉に異常な情熱を燃やし、それに時間を無駄に費やし、と私には思えたのだが、いつも自分を守ることばかりに専念する彼らと一緒に行動するのが嫌になってきていたのだ。ところが、夕方になって、二人組がその宿に舞い戻ってきたのだ。他にもっと安い宿が見つけることができなかったのだ。三人はコの字になって寝た。
藁のマットレスに身を横たえるや否や, もぞもぞ、チクリときたのだが、電灯もない部屋で何ができただろう。余程疲れていたのだろう、そのまま寝てしまった。
翌朝、朝日を入れるためドアを開けてすぐ気がついたのが、私の身体はありとあらゆる虫どもの餌場になっていたのだ。マブタまでヤラレ、しばらく左目はお岩さんよろしく腫上がった。床を見るとたっぷりと血を吸い、赤く大きくなった体をしたシラミがウジョウジョしているではないか。
これは…と思い、藁のマットレスカバーを剥がしてみたら、やっぱり私の宿敵南京虫が私の血で満腹し太ったやつが細い足をうごめかしているはいるは…。私がこれだけ虫どもに刺され、食われ、血を吸われたのに、ケンとラファエルは無傷で、全くやられていないのだ。私はどうも異状に虫に好かれるタイプ、虫刺されに弱い体質のようなのだ。
強烈に刺す虫、肌に取り付く虫がいるであろう、アマゾンの熱帯を切り開いて探検をするように私の身体はできていないことを知ったのだった。ケンとラファエルは何日も風呂に入らず、シャワーも浴びておらず、異常な体臭を撒き散らしているのに閉口していたが、彼らの体臭の強さが、虫どもを寄せ付けない防虫剤になっているのだろうか。
私は一泊しただけでザゴラを去り、マラケシュ、ミケネス、フェズを回り、スペインの港町アルヘシラスに舞い戻ったのだった。生理的にも心理的にも南京虫を受け付けないと思いこんでいた私自身がモロッコ産の南京虫、シラミその他こもごもの虫どもを身につけた運び屋になって、スペインに戻ってきたのだ。
片目が腫上がり、首筋が虫に食われ腫上がっている私は、胡散臭そうに値踏みされ、やっと受け入れ先が決まった態で、ペンションに泊まることができたのだった。アルへシラスの町でもいかにも南京虫、シラミ、ノミの類を身に付けているモロッコ帰りは敬遠されるのだ。
シャワーは別料金だと言い渡されたのを承認し、2週間ぶりにシャワーを浴び、ついでに着ていたティーシャツ、下着、一切合財洗い、天日で乾燥させた。バックパックもシャワー室に持ち込み、洗い流した。シャツやジーパンが乾くまでペンションの小部屋から出ることはできなかったが、強烈な太陽と乾燥した空気はものの1、2時間ですべてを乾燥してくれたのだった。虫どもを溺れさせ、彼らが忌み嫌う太陽で焙り殺してやったのだ。
その後、飛んでくる蚊、ブヨ、サンドフライに刺されることはシバシバあった。プエルト リコでは、“ファイアー・アント”(fire ant;火の蟻、ヒアリ;別名=殺人アリ)にやられ、全身が粟立ち、呼吸困難に陥ったりしたが、幸い南京虫にはお目にかかっていない。今までのところはという条件付きだが……。
※南京虫シリーズ 完
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