第9回:フランコ万歳! その9
1844年創設のグァルディアシビル、175年記念ポスター(2019年)
マキシモの方は、木の棒では済まされなかった。ボス格は鎖の先にチェーン、さらに先端に付いた鉄球をヌンチャクのように振り回し、尖ったイボイボの付いた鉄球の方をマキシモの腹部にブチ下ろしたのだった。
それまで頭をがっくりと下げていたマキシモが、どこからあんな声が出てくるのだろうか、絶叫した。それも身体をねじるようにクネラセ、何事かを喚き散らした。オマワリの方もそれに負けじとばかり、何事かを怒鳴りながら、マキシモを中世の戦闘武具で連打したのだった。
私は“マキシモよ、お前も男だろう、そんな肉体の苦痛で泣き叫ぶなよ、見苦しい姿を晒すなよ…”と、拷問を注視していた。マキシモの顔は鼻水と涙でグシャグシャに崩れ、前面が垂れ流しで濡れたズボンで覆われた下半身をくねらせた。
マキシモの次は私の番になると思い込んでいた。私はヤルなら勝手にやりあがれと、決意というのか諦めている自分自身に驚いた。まさか、殺されることはあるまい、もし、この野郎たちが私に拷問を加え、それでも私が生き延びたアカツキには、生涯かけて必ず復讐してやる、と決意している自分に驚いたのだった。
その時、私は自分には、戦場で塹壕に篭っている軍曹クラスか、錦糸町の下っ端ヤクザを勤めるくらいの資質があるのではないかと…気づいたのだった。彼らからのお呼びもなかったけれど、私は兵隊にもヤクザにもならなかった。日常生活でそんな自分に対する見栄やツッパリのカケラなどまったく必要のないモノだ。逆に、邪魔にさえなり、面倒なことに陥りやすい気質だ。第一、そんな事態に堕ちいる経験などせずに一生を終えるのが至極普通なのだ。
次は私の番になるのだろうが、不思議と恐怖心が沸いてこなかった。少し長いことブチ込まれるかもしれないが、まさか殺されることはあるまいと思っていた。死ぬことは、想像力が欠如してる人間にとっては恐怖に繋がらない。こんな状況にあっては、目の前のことだけにしか注意を集中することできず、殺されるかもしれない、死ぬかもしれないことまで意識が回らないものだ。だらしなく泣き叫ぶマキシモを見て、自分はあんな醜態を絶対に晒すまいと心を固めていた。
そして、どんなことがあっても、他の人のこと、とりわけオヒツのこと(彼はスペイン娘と結婚していた)を漏らすまいと決心したのだった。と言えば、なんだか格好良く耳に響くが、その現場で本気でそう思っていたのだ。しかし、地下牢に戻され、ジワジワと南京虫責めに遭ったら、そんな決意もあっさりと消え失せ、何でも白状したかもしれない。官憲は必ずマキシモとどこでどのように出会ったかと突いてくると思っていた。そして、マキシモの屋根裏部屋を借りておいてくれたのはオヒツだったから、マキシモの口からオヒツのことが漏れる可能性があると思い込んでいたのだ。私はあくまでマキシモと蚤の市で出会い、そのまま部屋を見て、住むことにしたというストーリーを作り上げ、それに固執しようと決心したのだった。絶対にオヒツの存在をこいつらに知らせてはならないと腹を括ったのだ。
その時、オヒツは私がグァルディアシビル(治安警察)に連行されたことを、マキシモのピソのポルテーロ(玄関番)から聞き出し、マドリードの日本大使館へ駆け込んでいたのだが…。
私のそんな決意が顔に表れたのだろうか。私は元々ポーカーフェイスを作れないタイプで、感情が即、顔に表れる傾向がある。そんな私の顔つきを子分格のキザオが見て、“フテー野郎だ!”とばかり、私の二の腕をグイと握り、“こんな筋肉を持ってるからにはカラテ、カンフーかジュードーをやっていたんだろう”というようなことを言い、試すように、私の腹に一発かましてきた。
後ろ手錠を掛けられ、椅子に座らされていると、自然上腕筋が締まり、太くなるものだ。私は今も昔も決して筋肉マンであったことはなかったし、カラテ、カンフー、ジュードーなどの格闘技をしたこともなかったが、彼らの中にある東洋人イコール、カラテ、カンフーというステレオタイプのおかげで、余計に殴られる羽目になったのだった。当時は、ブルース・リー全盛の時代だった。
極度に緊張していると、衝撃的な暴行を受けても痛みは感じないものだと知った。もっとも、後で殴られたところは痛み出すのだが…。キザオが私の腹にパンチを送り込んできた時、腹筋に力を入れていたわけではないが、息が詰まることもなく、椅子ごと後ろにひっくり返ることもなかった。キザオは自分のパンチの効き目が薄く、私が泣き叫ばないのが面白くなかったのだろうか、それとも、不遜に見られたのだろうか、“フテー野郎だ!”とでも思ったのだろう。私の内心は怯え切っていたのだが…。
キザオは私の髪の毛を掴み、その当時、私は今のようにツル禿でなく、豊かな黒髪を耳が隠れるくらいの長さに伸ばしていた、それを掴み揺さぶり、平手で頬を張り、マキシモの尋問、拷問に顔を向けさせ、“お前もああなりたいのか?”とばかり、何か大声で喚いたのだった。
尋問、拷問を受ける時、平静に見られるのは損をする。正しい、正統的な拷問の受け方は、ひたすら官憲、詰問官に恐れおののき、弱々しい表情をして、恭順を態度で示し、ぶん殴られる時も、痛みを堪えたりせず、イテテ、貴方様のパンチはよく効きましたと泣き叫ぶのが、尋問、拷問の模範的、正しい受け方なのだ。私のように、見苦しい醜態を見せまいと自分自身に対し見栄を張り、突っ張り、奥歯を噛み締めるのは良くない。その分余計に張られるだけなのだ。
その大部屋にいた十数人の刑事か事務員たちは、部屋の隅で拷問が行われてることによほど慣れているのか、マキシモの絶叫に近い泣き声、ボス格のギョロ目が大声で詰問し、イボイボの鉄球を振り回しているのに、こちらに注意を向けるでもなく、至極当たり前、日常的な情景だと思い込んでいる様子で、平然と各自のシゴトをこなしていた。
シエスタがあるため、営業時間は朝と夕方の二部制
スペイン人の日常で、絶対に崩せないリズムがある。ゆったりとした昼食とシエスタ、つまり昼寝だ。スペインに行くまで、時間をかけた正餐とシエスタがこれほど徹底した習慣だと想像していなかった。官庁は元より、銀行、郵便局、デパート、すべての店が閉まり、長い昼休みに入るのだ。当時は、昼の1時か2時から4時か5時まで、街中が森閑となるほどだった。フランコ時代には、それが法的規制でもあるかのように徹底されていた。
昼になって、私もまた地下の独房に戻され、長い昼食、お昼寝のお時間になったのだった。ボスのギョロ目もキザオも自宅に帰り、ユッタリトした昼食を家族とにこやかに摂り、シエスタをして、午後のオシゴト、新鮮な気持ちで“よっしゃ、またやったるぞ!”とばかりに尋問を開始したのだろうか。
第10回:フランコ万歳! その10
|