第12回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 1
赤毛の質問は、何のためにスペインに来たか、マキシモと何をしていたか、何を話していたか、どこからスペインに入国したか、その後、すべての行程と話を交わした人を日付、時間を追って宿泊した場所、誰と逢ったか、何を話したか、何のために共産圏の国々、ソヴィエト(当時はまだロシアではなかった)、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリーなどに行ったのか(これはパスポートのスタンプで知れる)、そこで何をしたのか、ETA(Euskadi Ta Askatasuna;バスク祖国と自由の略だが、バスク解放戦線の広議に使われている。一般のスペイン人にとってはバスクのテロリストグループだ)について何を知っているか、それからサーテ、イヨイヨ来ましたよ、お前は日本赤軍のメンバーではないのか、コーゾウ・オカモト(岡本公三;テルアビブのロッド空港乱射事件で26名を殺害)を知っているか、西ベルリンから東ベルリンに2度入っているが、RAF(Rote Armee Fraktion;ドイツ赤軍)と接触があったのではないか、一体何のために2度も行ったのか、と繰り返し、しつこく訊いてくるのだ。
その日の午後も次の日も、同じ質問が繰り返され、少しでも前日に言ったことと違う答えをすると、お前はウソを付いた、ごまかすな、正直に答えろとなり、一発かまされるのだ。しかし、これほどバカな質問もない。どこの誰が、ハイハイ、私はテロリストです、フランコさんを殺すためにはるばる日本からやって来ましたなどと答える奴がいるだろうか。
ミュンヘン・オリンピック選手村で発生した人質事件
確かに1960年の終わり頃から70年代の終わりまで、テロ全盛の時代だった。スペインの官憲が神経質になる理由は十分以上にあった。
私がスコットランドにいた年にミュンヘン・オリンピックの選手村のイスラエル人宿舎をパレスチナ人が襲い、選手11名が殺され、他の選手を人質に取り、イスラエルに収容されている岡本公三を含む234人の政治犯、テロ犯の解放を要求した。それが1972年の9月5日のことだった。時の西ドイツ政府が取った対応は素早かった。
イスラエルから特別部隊を派遣したいというオファーがあったが、それを断り、テロリストグループを脱出させるジェット機を用意し、そこまでテロリストグループと人質になったイスラエル選手をオリンピック村から引き出し、空港で西ドイツの特殊部隊が突入し、パレスチナグループを全員殺害して、落着をみたのだった。
それまで、アンチ・テロリストのために特別に訓練された特殊部隊が西ドイツに存在していることすら知られていなかった。西ドイツ政府が取った断固とした処置は賞賛されると同時に、イスラエル人、ユダヤ人の人質の命を危険に晒した、強いてはドイツ人はユダヤ人の命など無視していたのではないか…との非難に晒された。
西ドイツ政府が取った行動、それが鮮やかに成功し終えたことで、選手村の警備の甘さは忘れられ、ブランデージ会長は高らかに、オリンピックゲームを続けることを宣言し、競技は継続された。
ドイツ赤軍(RAF)のロゴマーク
<クリックで1970年代の自動車爆破事件>
70年代のドイツ赤軍=RAF(Rote Armee Fraktion)、通称バーダー・マインホッフ・グルッペのテロは激しかった。銀行襲撃、経済人の誘拐、爆破、窃盗、警察官射殺、デパートの放火などを毎週のように起こしており、殺された人、負傷者の総数すら確定できないほどった。バーダーの逮捕、そしてマインホッフらが計画、準備した劇的なバーダーの脱獄と続く。
彼等ドイツ赤軍は、PFLP(パレスチナ解放戦線)の訓練所でテロ、銃火器、爆発物の訓練を受けた後、1972年5月には連続15件のテロ活動を行っている。しかし、同年6月1日、フランクフルト市内で警察官との銃撃戦で、バーダー、マインホッフらが捕まり、シュツットガルト郊外の刑務所に拘留された。マインホッフは刑務所で虐殺されたとする人も多いが、獄死したのは1976年になってからのことだった。
バーダー、マインホッフが獄中にある時、赤軍派の弁護に当たったクラウス・クロワッサンとジークフリート・ハーグらが、俗に第二世代と呼ばれることになる過激な赤軍テロを継承していく。彼ら、第二世代の赤軍派は、政治家のペーター・ロレンツの誘拐、西ベルリン高等裁判所長官であるギュンター・フォン・ドレンクマン、西ドイツ検事総長のジークフリート・ブーバック、ドレスデン銀行会長のユルゲン・ポンドを暗殺し、ストックホルムにある西ドイツ大使官占拠事件など、連続して起こした。
1977年9月に西ドイツ経団連的な組織の会長、ハンス・マルティン・シュライヤーを誘拐、殺害、そして10月にはルフトハンザ181便をハイジャックし、ソマリアの首都、モガディシュに到着したところを西ドイツ政府の特殊部隊GSG-9は、ハイジャッカー3名を射殺、乗客全員を鮮やかに救出している。
日本赤軍の3人、奥平剛、安田安弘、岡本公三がテルアビブのロッド空港で乱射事件を起こしたのはミュンヘン・オリンピック選手村の襲撃の3ヵ月前、1972年5月30日のことだった。
それは、バーダー、マインホッフらがフランクフルトで銃撃戦の末逮捕された2日前のことだ。岡本らがPFLPでテロ訓練を受けた時、ドイツ赤軍グループもそこにいたと想像しても的外れではないだろう。それは無理のない推測だと思う。ドイツ赤軍はパレスチナ解放戦線に同調せず、自国に帰って活動するが、日本赤軍のメンバーはパレスチナ解放戦線の使い捨ての駒のように、自爆テロに関わるのだ。このロッド空港乱射事件は、パレスチナ解放戦線によって立案されたと言ってよいだろう。襲撃メンバー3名の日本人の逃走は、計画そのものに入っておらず、その場で死ぬことが義務づけられていた。それが今に至るまで続いている自爆テロ=ジハード(jihād)の始まりだったと思う。
彼らの無差別乱射により26名が命を落とし、73名の重軽傷者が出た。死傷者の多くは聖地巡礼のためにイスラエルを訪問しようとしていた、キリスト教徒、カトリック教徒だった。奥平は警備隊の銃弾を受け死亡、安田安弘は手榴弾で自爆したとも、被弾したとも言われているが、死亡。岡本公三だけが逮捕された。
テロにより亡くなった人たちに対して、イスラエル政府が取った処置は後々までテロの犠牲者に対する国家の補償の見本になるものだった。それはイスラエルの軍人、戦闘で命を落としたイスラエル人と同じ扱いで、イスラエル公務員の月給の75%を終身支払うというものだった。
ミュンヘン・オリンピック選手村を襲ったパレスチナグループは、その岡本公三を含め、イスラエルに拘留されている234名の釈放を要求したのだった。イスラエルにそんなにたくさんのパレスチナ人が拘留されていたのかと驚いたほど、私のパレスチナ、イスラエル問題への政治意識は低かった。
岡本公三は、私と同じ年、1947年生まれ、鹿児島大学の学生で、事件当時25歳だった。彼の兄はよど号ハイジャック事件の実行犯、岡本武だった。イスラエルは裁判で岡本公三に終身刑の判決を言い渡した。1985年になって、パレスチナ政府との岡本公三を含めた捕虜交換ディールが成立し、彼はレバノンへ逃れることになった。パレスチナは岡本を忘れていなかった。だがそれ以上に、イスラエル人はコウゾウ・オカモトの名前を心に刻み付け、忘れることはないだろう。
裁判時の岡本公三(現在もベイルートで生活している)
第13回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 2
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