第19回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 8
ドロレス・イバルリの話を続ける。
いったい彼女は何度逮捕され、牢獄にぶち込まれたことだろう。それでも、彼女は過激なアジ演説を繰り返し、市民戦争の見極めがつかなかった1936年の選挙では、共産党員としてオビエド県から立候補し、当選している。内戦、市民戦争が激しくなると、ドロレス・イバルリの演説に一層拍車がかかり、ラジオで流されるようになった。その時、「彼ら(フランコのファシスト軍)を通すな!」“ノー、パサラン(!No Pasaran!)”と叫び、それが共和国側の合言葉になっていった。
彼女は、「膝を屈して生き延びるより、両足で立って死ぬ方がマシだ、ヤツラを通すな! 私たちだけが通るのだ!」と、ことあるごとに絶叫し、それが前線で戦う共和国サイドの兵士たちの合言葉になっていった。丁度、イベリア半島からイスラム・アラブ人を追い出した時、カトリックの騎士たちが「サンティアゴ!(Santiago)」と叫んだように。
ドロレス・イバルリは“膝を屈し”はしなかったが、戦況がフランコの勝利に終わるのが決定的になった時、アルジェリアのオランに逃げた。人民戦線をもう一度組織し、巻き直しを図るため、という理由はあったにせよ、今振り返ってみると、ドロレス・イバルリが共産主義革命をスペインに起こす可能性はなかったと思う。頼り切っていたスターリンのソビエトは、ソビエト義勇兵のスペイン渡航を禁止した(すでにバルセロナに進駐していたソビエト軍、アレクサンドル・オルロフが率いる軍団は召還しなかったが…)。
スペイン内戦は第二次世界大戦前のヨーロッパ、西欧社会の進歩的良識派の試金石になった。スペイン、人民戦線を救えと、スカンジナビアからの第11国際旅団、イギリス、アイルランドからの第15国際旅団、フランス、ベルギーの第14国際旅団、アメリカからはリンカーン国際旅団と、人民戦線に加わる義勇兵が続々とスペインに入国し、軍団を組んだ。
『誰がために鐘は鳴る』 映画ポスター
ジョージ・オーウェル(George Orwell)がテルエルの激戦で負傷し、『カタロニア讃歌』を書き、アーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は『誰がために鐘は鳴る』を残した。ゲイリー・クーパー、イングリット・バーグマン主演で映画化されたこの映画は、フランコ存命中、スペインで上映が禁止されていた。
POUM(マルクス主義統一労働者党)、CNT(全国労働者連合)、スペイン共産党、アナキスト(無政府主義者)、それにスターリンのボルシェビキにとって目の上のタンコブのようなトロッキーのメンシェビキが内紛を重ねた。フランコの軍隊が目前に迫っているのに、前線に統一がなく、全体を大きく捉える作戦の立てようもなかった。負けて当然の戦いだったと思う。
ヤツラを通すな!と景気良く叫んでいたドロレス・イバルリも1939年、人民戦線が敗れたことが明確になるや、アルジェリアのオランに飛んだことは前に書いた。
フランコの死後の1977年、5月13日まで、ドロレス・イバルリはスペインの土を踏めなかった。フランコ死後の初めての選挙でスペインに戻ったドロレス・イバルリは、アストーリアス県の下議会議員に選出された。その時のラジオ放送を聴いた。80歳を過ぎてなお熱気ムンムンたる話し方は変わらず、「ノー・パサラン!」を叫び、歌っていた。
彼女がスペインを出てからすでに38年も経っているのだ。フランコが死に、一応民主主義の形態をとり始めたスペインに戻ってきて、「ノー・パサラン!」は、なにか時代遅れの懐メロのように空しく響いた。もっとも、共産党内での彼女の地位もシンボリックなものでしかなかったろう。ドロレス・イバルリは94歳まで生き、1989年にマドリッドで死んだ。
ドイツ軍の爆撃で廃墟と化したゲルニカ
画像クリック→パブロ・ピカソ「ゲルニカ」
ゲルニカ市にある実物大のタペストリー
突然、私は地下の南京虫拘置所から解放された。どんな理由で捕まったのか、また何故また忽然と釈放されたのか分からないまま、取り上げられていたパスポート、靴の紐、トラベラーズチック、ユースホステルの会員証などの入ったビニール袋を受け取り、ポイと道端に捨てられるように、プエルタ・デル・ソルの裏小路に放り出されたのだ。
恐らく、スペインのオマワリは、“コイツは取るに足らないバックパッカーだ、突っ込んで調べる価値などない”と懸命にも判断したのだろう。前に書いたが、日本で会った友人の友人が、バールでフランコの悪口を言っただけで、1年もカラバンチェル(Carabanchel;マドリッド郊外にある刑務所)に収監されたのを知っていたから、私もそのくらいは食らうのかなと…覚悟していたのだ。それが漫画チックなほど、呆気なく釈放になった。国外追放ですらなかった。何日以内にスペインを出国すべしなどということもなく、パスポートにも何も書き込まれていなかった。
何泊したのかさえはっきりしない、拘置所ボケのままフラフラとマドリッドの下町に彷徨い出たのだ。ヤクザ映画のように、黒塗りの車がお待ち申し上げることもなく、「シャバの空気はウメーナー…」とか呟いたところで、聞いてくれる人は誰もいないのだ。
頭上からガ~ンとばかりに照り付けている太陽から逃れるように、薄暗い洞穴のようなバールに入り、下戸の私が一人で冷えたビールで出所祝いの杯を挙げたのだった。
そして、マキシモのピソに向かった。私が収監されていたスペイン国家警察の本部からマキシモのピソまでは緩やかな坂道を下り10~15分の距離だった。ピソにはポルテーロ(portero;玄関番)もおらず、そのまま磨り減った階段を5階まで上がり、警察署で返してもらった袋から、鍵を取り出しドアを開けようとした。ところが、ドアは施錠されておらず、スーッと開いた。私はマキシモ、ラルフがアミーガ(女友達)を集め、陽気に出所祝いをやってくれるとは期待していなかったにしろ、室内が私が連行された時のままの惨状だったのを見て恐怖した。一歩足を踏み入れた時、全身が粟立ち、痺れたようになった。
幾日か前の夜に、銃口を頭に突き付けられ叩き起こされたベッドに腰掛け、これからどうしたものか思案しようとしたが、とても冷静に考えることができる精神状態ではなかった。とりあえず、バックパックに下着、靴下、洗面道具など、数少ない持ち物を詰め込み、マキシモのピソを出たのだった。
腹が酷く減っていることに気付き、毎日のように通っていた超激安レストラン『森の家』に入り、自分に奢るようによく冷えたビールに赤ワインまで取ってゆっくりと遅い昼食を味わったのだった。
私の行くところ、行けるところは、オヒツのアパートしかなった。
第20回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 9
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