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■ビバ・エスパーニャ!~南京虫の唄
 

第20回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 9

更新日2021/07/29

 

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地下鉄(Metro)プエルタ・デル・ソル駅<1980年頃>

地下鉄で終点まで乗り、午後の強い日差しの中、新興住宅地、高層アパートが建ち並ぶ急な坂道を登り、オヒツのピソ(アパート)に辿り着いたのだった。

ドアを開けたのは、オヒツの妻マリーロだった。オヒツは私の安否を確認するため警察署に出向いていて留守だった。マリーロは乳飲み子のマヤを抱え、「タケさん(私は彼女からそう呼ばれていた)、よくぞ無事に出てこれたわね~、大丈夫?」と言いながら、「サー、入って入って…」と私を室内へ導いた…のだが、ふと思い出したように、サルーンと呼ばれる居間に足を踏み入れる前に、玄関ドアの向かいにある風呂場を指差し、「ここで着ているモノを全部脱いで、洗濯機に突っ込んでおいて、そして、熱いお風呂にゆっくり入って頂戴…」と、命令するような口調で言明したのだった。同時に、「拘置所の南京虫を私の家に持ち込まないでよ…」と言った。

私が幾日も穿いたままの下着、とりわけ汚れきったパンツを洗濯して貰うのをためらっていたのだろう、マリーロは断言するように、「“mierda es mierda”(ミエルダ・エス・ミエルダ!;糞は糞;汚れたものは全部同じだという意味になろうか)と言い残し、オヒツの清潔なパンツを投げて寄越したのだった。

そういえば、拘留期間中、一度も顔を洗わず、歯も磨かなかった。虫刺されに極端に弱い体質の上、地下の拘置所で、南京虫の総攻撃に遭い、マンゴーを半分にしたような腫れが手足、全身を覆っている身体を熱い湯に漬けたのだった。

後にマリーロは、ドアに立ったその時の私はまるで汚れ切った幽霊のようだったと打ち明けた。

まもなくオヒツが帰宅した。国家警察署で散々待たされた挙句、私がすでに釈放されたことを知り、その足でマキシモのピソに行って来たというのだ。私たちはどこかで行き違いになっていたのだ。私は初めて日本語で思いっきり逮捕劇、それから地下の拘置所談、取調べの模様を語った。一息ついた時、オヒツは、「ナ~、ソウスケ。オメーは金払ってもできない貴重な体験をしたと思うことだな、好きなだけココにいろよ」と言ったのを覚えている。

南京虫拘置所にいたのは、オヒツが言うところによると、たったの5泊だった。その間、ウツラウツラ座ったままで居眠りはした…とは思うが、タイルの硬いベッドに一枚の南京虫毛布を敷くか被るかして横にはならなかったのだ。

オヒツのピソの居間にあったソファーベッドで朦朧とした状態のまま眠り続け、起きたのは、と言うか、起こされたのは翌日の昼過ぎだった。20時間近くも爆睡した。

「メシを食いにいくぞ!」と起こされ、オヒツのピソと背中合わせのように建っている別棟のピソ、マリーロの両親のピソに連れて行かれたのだ。マリーロの実家、クレマレス家では以前、クリスマスの会食のほか、何度か豪勢な食事をご馳走になったことがあった。ピソそのものは決して豪華ではなかったが、父親のリカルドは、封筒、便箋の工場を持っており、またシステマ・イベリコ(Sistema Ibérico;イベリコ山系)と呼ばれているマドリッド北東の丘陵地帯の村に、大きな別荘を持っていた。この別荘へは行ったことがなかったが、ひと夏を過ごしている家族の写真を観ると、それは大き目の家というより広大な邸宅のようだった。

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クレマカタラーナ(crema catalana)

クレマレス家はスペインの典型的な中産階級と呼んで良いだろうか。母親とお手伝いさんが作る食事は素晴らしかった。拘置所や私が通っていた安レストランとは、一味もふた味も違った。フルコースとでも言うのだろうか、前菜、サラダ、スープ、メインはステーキなどの肉料理が多かったが、カジキマグロを輪切りにした魚ステーキも出た。そしてデザートに季節の果物やカスタードプリン、リンゴや桃のパイ、クレマカタラナ(スペイン風のクレームブリュレ)、高級ワイン、食後酒、コーヒーにコニャックで締めるのだった。

ロクなモノを食べてこなかった私は、勧められるまま食べ、ほとんど身動きができなくなるほど腹に詰め込み、「タケさんはなんでも喜んで食べる、大食いだ」との評判を獲得したのだった。

ガンコ親父そのもののような父親リカルドが、私の顔を見て、ニタリと微笑み、「ペンション・コンプレータ(pensión completa;3食付のペンション)はどうだった? 意外と早かったなぁ」と呟いた。それが、彼の最高の出所祝いの言葉だった。

その日から、私はオヒツ宅に居候を決め込み、2ヵ月近く正餐である昼飯をマリーロの実家、クレマレス家で摂ったのだった。今思えば、厚顔の極みだと恥じるのだが、ただ娘婿の友人というだけの私をクレマレス家は至極当たり前のことのように、ほとんど家族の一員のように自然体で受け入れてくれたのだった。おかげでスペインの家庭をツブサニ知ることができたと思う。

マリーロの実家、クレマレス家には父親リカルドの母親、それに結婚前のマリーロの弟トニー、妹エレーナが住んでいた。そして長男のリカルド(父親と同じ名前を持つ例が多い)と彼の奥さん、娘、それに次男のアンヘルと彼の奥さんが昼食を自分の家で済ませた後、必ずクレマレス家をやって来て、両親に挨拶し、孫娘のマルタは曾お婆ちゃん、お爺ちゃん、お婆ちゃんにキスし、抱きしめられ、嵐のように去るのだった。これが決まりきった約束事のように繰り返された。

長男と次男は親父さんのリカルドの会社で働いていた。賑やかというよりむしろ騒々しいほどの昼食中、親父のリカルドはいつも無口だった。一度だけ、私が持っていたコクヨの大学ノートを見て、手に取り、「こんな良い紙は、ここでは手に入らんな…」と、紙の質を吟味するようにノートを無骨な指で撫で回したのを思い出す。

リカルドは私より20歳以上は年上のはずだから、青春を市民戦争の下で過ごしたに違いない。私は彼がどのようにその期間を過ごしたのか知りたかったが、その当時の私のスペイン語のマズさはさておいても、ただ興味本位でそのような質問をすることは憚られた。フランコがまだ生きていた時代に、スペインの市民戦争を気楽に話題にはできなかった。誰もが苦い時と経験を持っていたと思う。典型的な中産階級出身とみられる父親リカルドは、自分の家族を守るために、自分の富と言い換えてもいいだろうか、どのような立場を取ったか想像がつくにしろ、よそ者の私はそれを非難できる立場にはない。

それどころか、私のようなヒッピー、バックパッカーで釈放されたばかりの前科者?(スペインでは一度逮捕されると、記録に残ることを知った。イビサ島に住み、居住ヴィサの申請をした時、フランコが死んでから数年経っていたにもかかわらず、警察署の別室に拘留されたことがある)の私を受け入れてくれたことに絶大に感謝していた。

それはオヒツ、マリーロのカップルにも言える。警察がまさか私を泳がせ、ひそかに尾行しているとまでは思わなかったが、一度でも臭い飯を食った者と関わるのは当時のスペインではとても危険なことで、誰しも、係わり合いを避けたがった。それを、当然至極のように私を受け入れ、居候を許してくれたオヒツとマリーロの何よりも個人、人間を優先する心情には今思っても頭が下がる。

釈放されてから3、4日後、マドリードの中心街のマヨール広場を横切っていたところ、広場のカフェテリアにたむろしていた同朋、知人たちが走り寄って来て、「エッ? まだスペインにいたの? どうして即、こんな国を出ないの、まだ危ないから絶対にスペインを出るべきだ…」と、顔色を変えて忠告してくれたのだった。

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マドリード中心街のマヨール広場(Plaza Mayor)

 

 

第21回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 10

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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