第21回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 10
スペイン国家警察に逮捕され地下牢で過ごした体験は、私にとって貴重でユニークな体験ではあるが、大きな位置を占めるものではないと思う。危機一髪、危うく死ぬところだった(と後から分かるのだが…)ことは、その後何度も体験した。南京虫地下拘置所はちょっと面白いエピソード程度にしか自分の中に残らなかったと思う。
もし、マキシモのピソに私を逮捕に来て、散々私を小突き、ビンタを張った、ギョロ目、キザオにどこか街中で出会っても、“あの節はお世話になったな~、その後元気でやっているかい、ただ一つ、地下の拘置所の南京虫退治、消毒だけはやっておいてくれ…”と気楽に言葉を交わせたと思う。
そのままスペインに留まることに何の抵抗もなかった。スペインを怨むとか嫌いになるという感情は全く湧かなかった。ここでスペインから逃げて日本に帰ることなど考えられなかったのだ。その後、イビサで十余年過ごし、スペインを出たのは、スペインが嫌いになったからではない。夢また夢、到底実現できないと思い込んでいたヨットで世界を回る夢が現実味を帯びてきたからだった。
どうも私には奇妙に自分に対して見栄を切るようなところがある、あったように思う。一度、日本でマグロに食あたりして、酷い目にあったことがある。3、4日で食あたりの症状が取れた時に、即またマグロの刺身を食べたのだ。マグロのトラウマが自分の中に居座るのを拒絶したのだ。あまり賢い反応ではない。しかし、そのおかげでマグロを今でも堪能できている…と思う。
このままスペインから逃げては駄目だ、あくまでスペインに居座って、フランコの最後を見届け、スペインに自分の生活を創るのだ…とまでは決意したわけでなく、それどころかそんなことは全く思っていなかった。
逮捕、地下牢は、それから私のスペイン滞在、イビサ時代に全く影響を及ぼさなかったと思う。ただ、外国で安易に政治に関わる(いかなる意味でも、私はスペインの政治に関わったわけではないのだが…)ことの恐ろしさを少し味わったとは思う。そして、スペイン人すべてと言い切って良いと思うが、フランコの警察国家に抱く、骨の髄まで染み込んだ恐怖心を知ることができたと思う。

マドリッドの蚤の市(Rastro)の混雑は想像を絶する

蚤の市のピーク時には身動きができないほど
私が連行される前、マキシモのピソに住んでいた時、日曜ごとに蚤の市を歩いた。というよりマキシモのピソが蚤の市の一本裏小路に面していて、そこも本通りほどではないにしろ、屋台がギッシリ並び、身動きができないほどの人混みになり、その通りを通らずにどこにも行けなかったからだ。
ヨーロッパの大きな街の蚤の市は幾つも歩いたことがあるが、マドリッドの蚤の市の人出、混みようは桁違いで、ラッシュアワーの通勤電車のようだったのだ。身動きがままならず、押されるままに足を運ぶだけだ。
そんな状況は騒乱を起こしやすい。組織化された政治グループではないだろうが、蚤の市の会場、メインの通りの上の方にある小さな広場で、“フランコ打倒!”をラウドスピーカーで叫ぶ若者たちが現れたのだ。オッ、何かやっているな程度のよくあることだと読んでいたところ、誰かが“グァルディア(治安警察)だ!”とでも叫んだのだろうか、それが、蚤の市会場に広がり、文字通りアッと言う間に、本当に3分以内に、何千人、ひょっとすると万を越えた人が通りから消えたのだ。
店を広げていた何百軒のテキヤも消えた。まるで中心半径が狭いが、強力な竜巻=トルネードが通り過ぎた後のようだった。残っていたのは、日本人のテキヤ連中だけで、彼らはドサクサに紛れて並べた商品が盗まれるのを身体を張って守っていて、逃げ遅れたのだった。人気(ヒトケ)のないガランとした石畳の坂道にビニールの袋、ティシュペイパーが舞うだけだった。
それは唖然とするくらいの情景だった。たった2、3分であれだけの人が地上から消え失せたのだ。彼らは、恐怖心にかられ蜘蛛の子を散らすように逃げたのだ。私は警察を異常に恐れるスペイン人、一般の市民の姿を観て唖然とし、またこれじゃとてもフランコ打倒は夢物語だと思ったものだ。もっとも、それは私が逮捕、拘束される前のことだったから、官憲の恐ろしさを充分に知らなかった時のことだった。それにしても、蚤の市に来ている人の99%以上は政治運動に関わりがない至極普通の市民なのだ。彼らに共通しているのは、骨身に染込んだ畏怖だけなのだ。
マキシモのピソは表玄関のドアは開け放たれたままになっていた。そこにスワッとばかり逃げ込んだ人たちが5階の私の部屋近くまでの階段にギッシリ積み重なっており、騒動が終わって、私が自分の部屋まで階段を上っていくのに難儀したほどだった。私は単なる好奇心から、蚤の市に踏み留まっていたが、グアルディア・シビル(治安警察)の姿は影も全く目にしなかったから、スペイン人のフランコ警察国家に対する恐怖心が産んだカラ騒ぎだったのだ。
それまでは、デモ、示威行動というのは官憲と対峙するものだ…と信じていた私にとって、官憲の姿を見ただけで、それがたとえ幻想、幻聴であれ、逃げまどうスペイン人の様子は異様であり、フランコを倒すことなど、夢また夢だと思わせた。

晩年のフランコ総統とフアン・カルロス1世
フランコはパーキンソン病に冒されていたとはいえ、安穏として1975年の11月に死んだ。その後、多くの人が期待したような政変は起こらず、すでに公示してあった通りフアン・カルロス1世(Juan Carlos I)が臨時国家元首になり、フランコが死ぬ前に敷いたレールの上をスムーズに政権が移行した。スペインで現行の立憲君主制は、王党派が政治運動もしくは選挙で獲得したものではなく、フランコが前もってセットしておいた贈り物なのだ。ましてや、市民戦争以前の共和派が戦い抜いてフランコを打倒したのではないのだ。
歴史に“もし”という、実際に起こらなかったことを想定することは意味がない、とは重々承知の上で言うのだが、第二次大戦敗戦後、日本がソビエトに占拠されるか、アメリカとソビエトとの分割統治でなかったのは幸運だったと思う。たとえ沖縄という犠牲地域を生んだにしろ…。今、日本で戦後の統治がアメリカでなく、ソビエト=ロシアであった方が良かったと信じている人は皆無に近いのではないだろうか。
スペインの場合、もし市民戦争で共和派、人民戦線側が勝利を収めていたら、内紛を重ね、挙句には、カタルーニャ、バスクをはじめいくつかの国に分裂し、ソビエト=ロシアが東ヨーロッパを牛耳ったように、スペインも西ヨーロッパに打ち込んだ共産圏の楔(くさび)になっていたのは確実だったと思う。
第22回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 11
|