第10回:フランコ万歳! その10
もう、それが何日目の何時のことだったのか判然としないのだが、ある時取調室に連れて行かれたところ、マキシモの友人、仕事のパートナーでもあるラルフが、蒼白、血の気が全くない顔で後ろ手に手錠を掛けられ座っていた。
ラルフとは、マキシモのアパートで何度か顔を合わせていた。彼ら、ラルフとマキシモは、山登りが好きで、ロッククライミングもこなしていた。高い場所に慣れていたのと、ロッククライミングの技術を活かして、テレビのアンテナを屋根の上やビルの屋上に設置する仕事を一緒にやっていた。
ピソ(アパート)の屋上は家庭用TVアンテナが林立している
マドリッドの住居は基本的にピソ(piso;共同住宅、アパート)と呼ばれる4階から12、3階建ての高層アパートで、余程の大金持ちでもない限り、郊外に一軒家を構えることなどしなかった、と言うかできなかった。そして、テレビのアンテナは、ピソに住む一軒一軒が自分のためだけのアンテナを屋根の上や屋上に設置するから、30~40軒入っているアパートだと、その数だけアンテナが立つことになる。かなり後になって、高級ピソでは大きな集合アンテナを設置し、各戸に配線するようになったが、当時は屋根の上に各戸が思い思いに設置したアンテナがびっしり乱雑に林立していた。
マキシモとラルフのシゴトは好調だったと思う。二人とも独身で、金回りが良かった。ガールフレンドなのだが、ガールと呼ぶには10年さかのぼらなければならないセニョリータ、若々しさに溢れていない分、腰周りが充実している女友達をとっかえひっかえアパートに連れ込んでいたし、レストランやバールでよく散財していた。
フランコ治世下のスペインでは、疑わしきはショッピキ、締め付けるのが慣わしだった。それが同居人、親兄弟、友人にまで及ぶのが当たり前だったことはすでに書いた。拘束するのに裁判所から逮捕状を取り付ける必要もなく、従って、逮捕される時に黙秘権のことを警察が読み上げるなんて芝居じみたこともなかった。私の場合も全く何がなんだか分からない状態で手錠を掛けられ、地下の拘置所にぶち込まれた。何の容疑で捕まり、何を取り調べられているのかも分からなかった。まるで不条理の世界を地でいくような霹靂(ヘキレキ=落雷)だった。
マキシモがどのような過去を持ち、どのような形で政治運動に関わっていたか、いなかったのか全く知らなかった。彼とのコミュニケーションは、彼の怪しげなフランス語と私の片言以下のスペイン語だった。彼はインテリではなかった。彼の部屋にある印刷物といえば、写真や色刷りの絵がたくさん載っているゴシップ雑誌の類で、新聞すら読んでいなかったと思う。 彼がどの程度の学校教育を受けてきたのかも知らなかった。それでも私との会話の中で、スペイン語=日本語の辞書でスペイン語のスペルを器用に引き、そこを指差し、その単語を示してくれるのだった。
マキシモとの間借りの賃貸借契約書のようなものは紙切れ一枚もなく、互いのフルネームすら交わした記憶がない。いいかげんと言えばこれほどでたらめな賃借関係もない。私はマキシモに家族がいるのか、どこに住んでいたのか、どこで育ったのかなど、訊いたこともなかった。マキシモにしても、馬の骨か泥棒、犯罪者を抱え込む危険性はあったのだ。
かなり後になって知ったことだが、外国人に家、またはその一部を貸す場合、紙の質も印刷も悪い所定の用紙、「外国人宿泊票」に国籍、パスポート番号などなどを書き入れ、それを地元の役所、警察に届け出ることになっていた。これはホテルだけでなく、ペンション、ホステル、下宿屋など、すべてに適応される建前だった。マキシモはそんな決まりを知ってか知らないでか、ズボラを決め込んでいたと思う。
マキシモはゲジゲジ眉毛、少し縮れた黒髪、顎の尖った顔に、2日も剃らないとゴワゴワの濃い髭が顔面全体を覆う質だった。どちらかと言えば痩せ型の中肉中背だった。彼と握手するまで気が付かなかったが、右手の人差し指から小指まで、4本の指が根元からスッポリ切れ落ちていて、手の平に親指だけが残っている状態だった。彼は悪びれずに、親指と手の平だけの右手を差し出し、握手したのだった。
彼は指のある時代、相当ピレネーの山をこなしており、不法に山越え、越境してフランスでぶどう狩りなどの季節労務者生活をし、貯め込んだ小銭を持ってスペインに舞い戻ってくるという生活を続けていた。ピレネー山脈を越えてフランスに入る山の抜け道は、彼イワク、何百、何千とあり、足さえ丈夫ならいとも簡単なことだと言うのだ。
どんな小さな村にも必ずグァルディア・シヴィルが巡回していた
問題はスペイン側に降りてきて、小さな村や町に入る時で、当時のスペインのどんな小さな村にでも、必ずグァルディア・シヴィル(治安警察)が黒く光ったエナメル皮のボナパルト帽を被り、深緑の制服を着て住民全体と余所者に目を光らせていたから、彼らに目を付けられないように村や町に入り、素早く最寄の大きな街に紛れ込むかがスペイン入国のカナメだと語っていた。彼によれば、国境なんてあってないようなものだということになる。
マキシモが右手の指4本を献上したのは、フランスのルノーの自動車工場だった。プレスに鋏まれ、バツンと一瞬にして指がなくなったと言うのだ。その保障金の一部で私が間借りしたピソ(アパート)を購入したのだった。それは良いのだが、指がなくてはぶどう狩りもできず、どこの工場でも雇ってくれず、翌年からはピレネー越えでフランスに行くのを止め、ラルフとテレビのアンテナを立てる仕事を始めたと知った。
こう書くと、意思の疎通がスンナリといったように聞こえるが、辞書を引き引き、「メ・コンプレンデス?(Me comprendes?;分かったか)」と繰り返され、やっとどうにか疎通が成り立ったのだった。
ラルフの方は、マキシモとは対照的なルビオ(rubio;金髪、明るい色の髪)で、ガッチリとした体躯、顎の張った大きめの顔の持ち主で、いつも静かな口調で話した。ラルフやマキシモの家族を取調室で見掛けなかった。おそらく彼らはどこか田舎から出てきたのだろう。田舎の彼らの実家へ、必ずグァルディア・シヴィルが訪問しているはずだ。
と確信を持って言えるのは、私の実家、母親のところへ札幌北署の刑事が訪ね、“お宅の息子さん、何しにスペインへ行ったのか?”などなど、しつこく訊いたことを、何ヵ月も経ってから日本に帰った時に知ったからだ。その時、途中で投げ出すように放ってきた大学へも警察の手が回っていたことを知った。
アスタ・マニャーナ(Hasta mañana;また明日ね…)の国、その“明日”が限りなく繰り返されるお国柄のスペインにしては、異常に素早い行動で、日本の官憲に照会していたのだ。日本のオマワリが母の元を訪れた日付け、そして大学の学生課に公安が私の所在を問い合わせた日付けは、私が捕まってから2日後であることを知り、その素早さに唖然としたことだ。と同時に、お前たち、スペイン人もその気になれば、案外アスタ・マニャーナを忘れ、スピーディーに行動できるではないかと実感させられたのだった。
マキシモとラルフのガールフレンドたちも目にしなかった。彼女らに対しどんな取り調べ方をするのか、興味を持っていたのだが…。見掛けなかったからといって、“御目溢し”に預かったとは思えないが…。
第11回:フランコ万歳! その11
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