第14回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 3
福田首相は“一人の生命は地球より重い”と一見、もっともな人道主義的なコメントで、世論を自分サイドに呼び寄せようとした。また、それがある程度成功し、日本赤軍のテロリストたちが日本国内ではなく、海外で事件を起こすのは対岸の火事だし、600万ドルという大金も日本政府の国庫にとってはほんのスズメの涙だと取ったマスコミも多かったと記憶している。
考えてみるまでもないのだが、政治家、政府が“一人の生命”を“地球より重く”とり、政策を実行したことは歴史上ない。この場合の一人の命とは、ハイジャック機に乗り合わせていたアメリカ政府の要人、カーター大統領に至極近い銀行家のことだ。
福田首相が取った措置は、その後一人どころか何十人、何百人の命を奪うことになるのだが…。
もっとも、この杜撰なハイジャックの実行犯たちは、乗客にそんな大物がいるとは知らなかったようだ。
イタリアでは1969年に“赤い旅団(Le Brigada Rojo)”が結成され、テロを繰り返し、1978年にはモーロ首相を誘拐、殺害するまでに発展していく。
このテロの時代の背景には、ソビエトを中心とした共産圏の国の支援があったのだろう。今から見れば、あの吹き荒れた共産主義思想という幻想に私たちは踊らされていたのだろうか? 恐らく、いま、ソビエト時代のロシアをもって理想郷だとしている人間はまずいないだろう。
ベルリンの壁が崩壊し、ソビエト時代が終焉を告げ、東ヨーロッパの共産政権が続々と倒れたのと時を同じくして、ドイツ赤軍は武装解除、武装闘争を放棄した。
スペインでは、全く事情が違った。スペイン人がよく口にするように、“私たちは別だ”(ソモス・ディフェレンテス;Somos diferentes;ヨーロッパ人ではない、特殊、特別な国民性、事情があるという意味で、誇りをもって自称する)という特殊事情があった。私が初めてスペインに入国した時、すでに外貨獲得のため観光客、避暑客大歓迎の時代になっていた。外国の資本を受け、大きなリゾートホテルが矢継ぎ早に建ち、飛行場も整備され、激安のチャーターフライトが引きも切らず飛んで来ていた。
夏、1ヵ月を過ごすヴァカンス客は、スペインの政治、フランコの独裁政権に触れない限り、ミネラルウォーターより安いワインと燦燦と降り注ぐ太陽を享受できた。たった一つの条件、スペインの政治に触れないことだけなのだが、それがスペインの雷管だった。
私が右も左も分からないまま地下室に拘留された1年半ほど前、1973年12月20日に時の首相であったルイス・カレーロ・ブランコ(Luis Carrero Blanco)がE.T.A.(エタ=バスク祖国と自由;通称バスク開放戦線)の手によって暗殺された。
ルイス・カレーロ・ブランコ(Luis Carrero Blanco)
ETAによる爆破暗殺事件(1973年12月20日)
ルイス・カレーロ・ブランコは、スペインの北サンタンデールに近いサントーニャで生まれた。1904年3月4日のことだ。父親は海軍軍人だった。家の伝統に従い、彼も14歳でカデツの海軍学校に進んでいる。彼の専門は潜水艦だった。1924~26年のことだから、そんな時代にどんな潜水艦がスペインにあったのか興味が沸く。
私の父方の祖父が海軍軍人で、日露戦争の時に潜水艦の艦長だったというので、1904~05年の日露戦争の時、一体どんな潜水艦に乗っていたのか調べたことがある。何のことはない人間魚雷に毛が生えた程度の鉄の箱で、乗員3~5人をどうにか詰め込めるスペースしかないオモチャのようなシロモノだった。その艦長と言ったところで、高々3~5人の長であることを知って、子供心にガッカリしたことを覚えている。その割りに、爺さんは真っ白い軍服にメダルをごちゃごちゃ飾り、胸を張り、気取ったポーズで写真に納まっているのだが…。
カレーロ・ブランコが乗っていた潜水艦は、はじめB-2,その後大型のB-5というスペイン最先端をいく潜水艦だった。このスペイン、カルタヘナ造船所で造られた潜水艦は28~34人も乗り込める本格的なものだった。1904~05年に私の爺さんが乗っていた、一旦乗り込むと、その席から全く身動きができない、立って歩くことなど問題外の鉄の筒とは違い、30年後の1936~39年に造られたB-5型はエンジン、バッテリーに潜行航行能力を限定されているとはいえ、サポートの母船を必要とせずに自力で航行できるものだった。
彼がマドリッドにある海軍軍事訓練所で教鞭を取っていた時にスペイン市民戦争が勃発し、人民戦線側の捕虜になった彼の兄、ホセは捕まり銃殺されているし、父親のカミーロも人民戦線に逮捕されたと同時に死んでいる。自殺とも、逮捕に来た人民戦線兵士にその場で射殺されたとも言われているがはっきりしない。
カレーロ・ブランコは拘置所から脱出し、メキシコ大使館に亡命し、すぐにフランスに渡っている。拘留されている時、彼の耳に入ってくる情報は非常に限られていたと思うのだが、彼の父、兄が殺され、自分にも危険が迫っていることをどうやって知ったのだろうか。このあたり、カレーロ・ブランコには単なる海軍士官ではなく、全体の状況を掴み、判断する能力が備わってたとみて良いだろう。
一旦フランスに逃げたが、サンセバスチャンからスペインに舞い戻っている。時のスペイン王アルフォンソ13世(在位:1886年5月17日 - 1931年4月14日)は市民戦争が始まると同時にスペインを逃げ出していたにしろ、市民戦争前の軍人は大多数が王党派で、国王アルフォンソ13世の統制下にあった。1936年2月の選挙で人民戦線側、共産党の左派が勝利すると、国王アルフォンソ13世はイタリアに亡命した。国王の統制下にあった陸海空の軍は分裂した。
新政権に賛意を持つ海軍、空軍士官は多かった。陸軍は保守、言ってみれば右寄り、フランコ側で、選挙による共和国新政権を認めなかった。とは言っても1930年代のスペイン海軍、空軍はお粗末なもので、陸軍が圧倒的な勢力を持っていた。内紛に終始し、まとまりのない新政権、共和国政権はアストゥリアスの炭鉱ストライキ制圧で名を上げたフランシスコ・フランコをアフリカのカナリア諸島の司令官に左遷させる程度が精一杯の政治力しかなかった。
後に独裁者になったフランコの経歴、生涯を見た時、彼が非常にツイテいた、幸運だったかを知る。確かにフランコは状況を見極める目を持っていたし、定見のなく、したがって節操のない身の処し方で保身を計っている。新政権はアストゥリアスの炭鉱ストライキ潰しにフランコがムーア人(Moro;Moors;北西アフリカのイスラム教教徒)の傭兵を使い、暴虐を働たらかせ、炭鉱労働者を殺した罪で、フランコを処刑できる立場にあったが、お茶を濁すように左遷しただけだった。もちろんその時点で、フランコが反乱軍の指導者となり、独裁政権を敷くことになろうとは誰も予想していなかった。
モロッコ(当時、スペイン領サハラと称されていた広大な地域)で、スペイン駐留軍が新政権に対し反乱を起こした時の首謀者はホセ・サンフルホ(José Sanjurjo)とエミリオ・モラ(Emilio Mola)だった。期を見るのに敏だったフランコは、カナリアから駆けつけた。それが1936年の7月だから、フランコは5ヵ月足らずカナリア諸島の島流しだったことになる。そして、陸軍内で圧倒的人気があったエミリオ・モラ将軍とサンフルホ将軍が相次いで飛行機事故で亡くなり、俄然、フランコが反乱軍の主導権を握ることになったのだ。
フランコは扱いなれたムーア人の傭兵を大量にスペイン本土に送り込もうとしたのだが、海軍、空軍はまだ態度を決めかねるどころか、新政権の人民戦線寄りだったから、反乱軍、主にモロッコ外人部隊をジブラルタル海峡を渡らせる手段を持たなかった。輸送機を提供し、反乱軍を大量に本土に送ったのは、ナチス・ドイツとイタリアの空海軍だった。スペインの人民戦線はそれに対して何の手も打たなかった、というより、打てなかった。
Generalisimo, Francisco Franco Bahamonde
フランシスコ・フランコ大元帥
モロッコでの反乱蜂起からたった3ヵ月後の1936年10月には、一方的ではあるにしろ、フランコはブルゴスで反乱軍総司令官、国家元首に就任し、ヘネラリシモ(Generalisimo)、将軍に最上級が付く名称、大元帥と訳せばいいのだろうか、を自分に与え、フランコを呼ぶ際にヘネラリシモが通称になっていった。
そして、まさに血みどろの市民戦争がスペイン国内で始まったのだ。
第15回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 4
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