第23回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 12
スペイン全土からフランコの銅像は消えた。
市民戦争では積極的にフランコサイドに協力し、ファシスト党と一体となって共和派を追い詰めたカトリック教会、司祭たちは、フランコ死後も無事に存続し、現在でも隠然たる影響力を持っているのは、宗教心を全く抱いたことがない私のような者には不思議に思える。フランコが消え、彼の銅像が取り払われるなら、フランコと同体になっていたカトリシズム、カトリック教会もバッシングされなければならないと考えるのだ。
スペインでのチャーチゴアー(毎週日曜日に教会に行く人)の割合はアメリカより低い。若い世代はほとんど教会に行かない。それどころか、教会、カトリシズムを唾棄するように嫌う。だが、彼らの姪、甥などの洗礼やコムニオン(Comunion;聖体拝受、七五三にように幼児期に行われる盛大な儀式)には正装し参列する。彼らがいかにカトリシズムを批判しようが、私の目には、スペイン人には逃れられない歴史の拘束力が働いているように見える。
サッカーの選手が競技を始める前、メンバー交代で途中からフィールドに入る時に胸に十字を切る。闘牛士もアレーナに入る前に、牛と対峙する前に胸に十字を切る、そして胸に付けた十字架にキスする、また、イベリア航空で離着陸する時、半数以上の乗客も十字を切る。それが実に自然な仕草で、板に付いているのだ。彼らの体内、骨の髄まで染み込んだ体臭になっているように思う。たかだか40年のフランキスモ(Franquismo;フランコ主義)と1500~1600年間、いつも頭の上にあったカトリシズムとは重さが違うのだろうか…。
マドリッド“蚤の市”は地下鉄ラティーナ駅から(クリックでラストロ風景)
オヒツ、マリーロ宅に居候している間、何度か日曜日の“蚤の市”に行った。最後の方は『水中花』を小さなキャンプ用のテーブルに並べ、売ったりした。他の仲間も数箇所に散り、同じものを売っていたのだが、これがよく売れた。日曜日の朝、4、5時間のショーバイ、テキヤ稼業で、贅沢さえ言わなければ一週間分の生活費を稼ぐことができたのだ。
私は生まれて初めて街頭でモノを売る、テキ屋デビューを果たしたのだ。フウテンの寅さんじゃないが、これほど気楽で責任が一切なく(もちろん消費税などは払わない)、ただショバ代として、マドリード市の役人が集めに来る罰金(ほんの百数十円だった)を払い、印刷も紙も粗悪な領収証をもらい、それをテーブルの隅にピンで留めるだけが義務といえば義務だった。
大人気だった『水中花』には欠点があった。日本にいる友人、知人に仕入れ、郵送を頼まなければならず、その上、当時のスペインの郵便制度が確実性、信頼性が低く、さらに、少し大きめのダンボール箱などは通関で開けられ、そのまま没収されることがままあったのだ。したがって、蚤の市での人気商品、日本の美、『水中花』は即品薄になり、時機に売る物が手に入らなくなってしまったのだ。

水の中で花が開く『水中花』、蚤の市で大ヒット(クリックで拡大)
そこは創意工夫と指先の器用さを持ち合わせている我が同胞は、ハデハデしい色合いのガラス球を使い、メッキした針金でイヤリング、ネックレスを造ったり、金色の針金をスペイン人の名前をその場でアレヨ言う間に曲げて、ペンダントやネックレスを作る曲芸を披露した。この針金の名前造りは結構長続きした。それから、アンダルシアのマラガ県の太陽の海岸(Costa del Sol)にある真っ白い丸石に金色の針金を巻き、その石に名前を注文で書き入れるという元手がゼロに近い商品を開発?したりしていた。
マドリッドの蚤の市だけでは先が知れている…というわけで、地方のお祭りを回るテキ屋行脚に出る同胞も現れた。テキ屋全盛期には日本人が十数人はいただろうか。画学生、フラメンコギターの修業者、語学学校の学生もいたが、ただスペインに居たい、住みたい組もいた。セニョリータと一緒になり、テキ屋を生活手段にしている者も数人はいたと思う。皆気の良い連中で、こんな生活ができる、許されるスペインはありがたい国だとの意見の一致をみていた。私は専門のテキ屋にはならなかったが、40年も経った今でも、彼らを懐かしく想い出し、時折メールをやり取りしている。
11月か12月のことだったと思う。『水中花』を蚤の市で売っていた時、マキシモに逢ったのだ。彼が厚手のオーバーコートを着込んでいたから、晩秋か初冬のことだろう。マキシモは懐かしげに微笑み、指のない右手を差し出し、硬く握手したのだった。口髭を蓄え、すっかり面変わりしていて、どこか中小の店の主のようだった。
彼は何度も「俺は何もしていなかった。政治運動に関わったこともない…」と言い訳がましく繰り返し、「外国人(私のこと)を自分のピソに引き入れたことだけが間違いだった」と弁明していた。いつ出てきたのだとの問いに、3ヵ月間留め置かれた、あそこへは二度と戻りたくない。ピソは大改修をして売るつもりだ、お前買わないかと持ちかけてきた。
彼と15分ほど話込んだだろうか。ラルフとのアンテナ設置業がよほど旨く行っているのだろう、服装も腕時計、指輪も金回りの良さを示していた。だが、私はマキシモが警察署で吊るされ、中世の武具、鎖の先端にイボイボの突起が付いた鉄球でぶちのめされ、小便を垂れ流しながら、絶叫している様子が瞼に浮かび、目の前にいるマキシモの姿と一致しなかった。
マキシモは私のせいで逮捕され、拷問されたと直接言わなかったが、そう思い込んでいることはミエミエだった。
マキシモは、「幸い、親父(フランコのこと)は死んだけど、まだ安心できないぞ。お前も十分注意しろよ…」と捨て台詞を残して立ち去ったのだ。それからマキシモに出会ったことはない。
第24回:堀田善衛とテキ屋稼業
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