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第13回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 2

更新日2021/06/10

 

私がヒッチハイクでハンブルグからベルリンに向かった時、拾ってくれたのがイスラエル人のベルリン大学の教授だった。それが岡本公三のテルアビブ・ロッド空港乱射事件の後、ミュンヘン・オリンピックの前だった。彼はしきりに日本人がなぜアラブやパレスチナに共鳴するのか、なぜ反イスラエル感情を持つのか、なぜ岡本公三のようなテロリストを送り込んでくるのか訊いてくるのだが、私には答えようもなかった。その教授は、“パレスチナのアラブ人は自らを捨ててかかるテロを実行する度量がないから、カミカゼの特攻精神を持っている日本人を利用した…”とまくし立てた。

私の大学時代は、学園紛争に明け暮れていた。心情的な共感を持ってはいたが、紛争のリーダーたちにどこか自己肥大した狂信的な要素があるのを感じていた。何度か誘われるままにデモに参加し、また日比谷公会堂での集会、学内の団体交渉に後ろの席で参加した。参加というより、興味本位のオブザーバーだったと今になって思う。

“ゼンガクレン(全学連)”は明治維新前の“ローニン(浪人)”同様、西欧のマスコミに載る新しい言葉になっていた。自分の命を惜しまず切りつけてくるローニンが恐れられていたように、何を仕出かすか分からないゼンガクレンも畏怖されていた。左翼の活動に神経を尖らせていたスペイン政府は、当然、日本の赤軍派、ゼンガクレンの動向をシカと掴んでいたことは確かだ。

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浅間山荘事件(1972年2月19-28日)

とりわけ日本中が固唾を呑んでテレビに釘付けになった“浅間山荘事件”(*1)は、西欧にも知れ渡っていた。1972年2月19日から28日までの攻防は未だに破られることのない89.7%という記録的高視聴率の実況中継だ。アメリカ人がケネディ大統領暗殺の時、どこで何をしていたかを鮮明に記憶しているように、この事件があった時どこで何をしていたを記憶している日本人が多いことだろう。

ところが、私はどこにいたのかさえ記憶にないのだ。今に至るまで、テレビを持ったことがないという事情はあるにしても、スコットランドに行く前だったから、横浜、中華街のドヤ、聚楽荘にいたのだろうが、“浅間山荘事件”は新聞と雑誌で知った。両手を挙げ投降した日本赤軍派の面々を観て、“アレッ、なんだコイツら、今になってオメオメと投降するのかよ…”と軽蔑感を持ったのを覚えている。 

私が決定的に学生運動への共感を失ったのは、この“浅間山荘事件”、それに前後して起こった赤軍派のリンチ事件で14人の“総括” “粛清”で殺された遺体が続々と発見された時だった。リンチはKKKが黒人を吊るすか、戦前の特攻オマワリの専売特許、特技だと思っていたから、仲間を殺す陰惨な殺人は学生運動への私の共感を吹き飛ばすのに十分なインパクトを与えた。

その前に、日比谷公会堂での集会で中核と革マルがゲバ棒を振り回し、子供のチャンバラよろしく渡り合うのを末席で観ていた。それが子供ではなく、体が一丁前になった学生が殺気立って長い角材を振り回し、“内ゲバ”と称されたチャンバラ戦争ゴッコを演じたのだった。

朋友の服部は政治意識が強く、学生運動に対しても自分独自の意見を持って参加していた。それだけに、彼らの人間性を見抜き、失望するのも早かった。集会で大言壮語する奴ほど、変身が早く、素早く就職活動を始めた。服部は違った、こんな奴らと一緒にされてたまるかとばかり、また学生運動に愛想を尽かし、彼の夢であった船乗り、士官、航海士、ひいては船長になるために入った大学をスッパリと辞め、北海汽船の最下級の船員になったのだ。

休暇で下船した時、私の部屋によく来て泊まっていった。服部は最下級船員としての仕事は便所掃除とペンキ塗りだと自嘲していた。が、休暇中、航海士の資格試験の勉強を続け、次々と試験にパスし、数年後には最後の甲種船長の試験にまで通ったのだ。その年、高専や商船大学など、学校を経ずに独学でそこまで行ったのは彼一人だった。

私は服部から大きな感化を受けたと思う。私の方は、ただ逃げ出すように大学を投げ出し、スコットランドに行っただけなのだが…。 

マドリッドで治安警察に質問攻めに遭った時、日本での学生運動、政治運動を知らぬ存ぜぬで通したが、京浜安保共闘の趣旨、“親から仕送りを受けている学生だけでなく、地元の労働者も含めなければならない”という方向にだけに共感し、集会を覗いたことが何度かあった。そこで同じ大学の同期生の坂口弘(浅間山荘事件で投降)、岩田半冶、リンチで殺された尾崎充男らがいたことは確かだった。しかし、長髪、ひ弱、繊細な学生たちの印象しか残っていない。誰が誰だかも判らなかった。

凄惨なリンチ、虐殺が発覚してからも、テロは続いた。テルアビブのロッド空港乱射事件、そして1973年の7月にアムステルダム上空で丸岡修らが日航機をハイジャックし、ドバイまで飛んだが、そこで逮捕された。1974年には日本赤軍のシンガポールの製油所襲撃、シージャック事件、夏には三菱重工業本社ビル爆破、秋に入って三井物産本館前の爆破、75年の間組本社と大宮工場の爆破、そして8月4日のクアラルンプール事件(*2)が起こる。

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クアラルンプール事件(1975年8月4日)

アメリカとスウェーデンの大使官員、総領事を含む52人を人質に取り、日本で拘留されている同士7名の釈放を要求したのだ。この事件が、後のテロ活動に及ぼした影響は計り知れない。というのは、時の総理大臣、三木首相が“超法規的措置”として、テロリストの要求を呑み、7名を釈放したからだった。

西欧の国々ではこれを想像外の弱腰の対応だと取った。こんなことを一度許せば、テロリストは必ず同じ事件を起こす、また開放されたテロリストが大掛かりなテロを繰り返す、事実その通りになったのだが…。よって、いかなる要求にも応じるな、テロを増長することになる措置は断固取るな、という信条が基本的に西欧の国にある。それを日本政府が弱腰からか、外交政策の忖度からなのか、テロリストの要求を受け入れたのだ。

当然、西欧諸国は日本の弱腰を非難した。日本政府はテロに屈し、世界にテロリストを撒き散らし、おまけに豊富な資金まで与えたとされたのだ。7名の内、5名はリビアへ飛んだが、坂口弘と松浦順一は日本の牢に留まることを自ら選んでいる。

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ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年9月28日)

日本政府の弱腰対応は77年9月28日の日本赤軍派、日航472便のハイジャック(*3)に繋がった。テロリスト・ハイジャッカーは日航機をパキスタンのダッカに強制着陸させ、拘留中の9名の釈放を要求した事件に繋がっていく。

この時も、時の福田首相が日本に拘留されていた9名を釈放、6名をダッカからテロリストなど犯罪人引渡条約に加盟指定していないアルジェリアへ、同じ日航機でお送り申し上げたのだ。おまけに当時の金で600万ドル(現在の換金率で行くとおよそ16億円相当になろうか)という莫大なお土産を持たせてやるという“超法規的措置”を取ったのだ。西ドイツやイスラエルが取った断固とした措置とは対照的な対応だった。

その前の年、1976年に起こったエールフランス139便のハイジャック、そしてテロリストが要求したパレスチナ捕虜53人の釈放、500万ドルの要求に対して、イスラエル政府がとった、通称“サンダーボール作戦”で、100名のイスラエル特殊部隊を4,000キロ離れたウガンダのエチェンベ空港に送り、犯人4人を殺害、そのオペレーションで人質も3名が命を落としたにしろ、成功させたのと比べ、ダッカのハイジャックに対する日本政府の甘さ、100%テロリストの要求を呑んだことは全世界にショックを与えたと言ってよい。


 

*1浅間山荘事件(1972年2月19-28日):軽井沢にある山荘に、連合赤軍が管理人を人質に10日間に及んで立て籠もった事件。警察が強行突入し、人質は219時間ぶりに無事救出、犯人5名は全員逮捕。突入の様子はテレビで生中継され、最高視聴率は89.7%(視聴率日本記録)。死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(うち機動隊員26名、報道関係者1名)。

*2クアラルンプール事件(1975年8月4日):日本赤軍が在マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠して職員ら52名を人質として、日本国内の刑務所に収監中の囚人解放を要求したテロ事件。当時の三木内閣がテロリストの要求に屈し、超法規的措置として服役・拘置中の活動家5名を釈放・出国させたため、日本赤軍はさらに同様な事件を起こした。

*3ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年9月28日):日本航空472便(乗員14名、乗客142名)が、経由地のムンバイを離陸直後、拳銃、手榴弾などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。バングラデシュの首都ダッカのジア国際空港に強行着陸。身代金600万ドル(約16億円)と、服役・勾留中の9名の釈放要求。10月1日に福田赳夫首相が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金の支払いおよび「超法規的措置」として、収監メンバーなどの引き渡しを行うことを決めた。

 

 

第14回:フランコ万歳! テロの時代 私的つぶやき 3

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佐野 草介
(さの そうすけ)
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海から陸(おか)にあがり、コロラドロッキーも山間の田舎町に移り棲み、中西部をキャンプしながら山に登り、歩き回る生活をしています。

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第1回:フランコ万歳! その1
第2回:フランコ万歳! その2
第3回:フランコ万歳! その3
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