第586回:恩人からのご褒美 - ANA061便 羽田―札幌(新千歳) -
「すぎやまァ、きっぷ取れたぞ、いくぞ」
電話の主はY氏。私の恩人である。出版社勤務時代に彼は編集長、私はその雑誌の広告担当として関わった。ネット時代の黎明期、主要コンピューター系雑誌の売り上げが下降気味の頃、マルチメディアのおもしろさを押し立てて切り込んだ。部数は獲得できたけれども、広告は苦戦した。出版業界にゲリラ戦を挑んだ同志、と私は思っている。
私が退社してフリーライターとなって1年あまり。主軸となる場を得られずPCのカタログ書きなどで食いつないでいた。そんな時、Y氏が新雑誌に私を抜擢してくれた。CD-ROM付きの薄い雑誌ではあったけれど、Y氏はデジタルコンテンツを担当し、私は紙のほうの約半分のページを任された。毎月、50ページほど書いただろうか。
その雑誌に関わった約5年間、Y氏に文章書きを徹底的にたたき込まれた。素人同然の文章に細かく赤字を入れて戻してくれた。気を抜けば印刷屋を待たせても全ページ書き直しを命じられた。悔しさをかみしめ、なんとか食らいついていき、少しずつ赤字が減っていった。それから10年経った。あの経験が私のライター稼業の礎となっている。
札幌行きANA061便 羽田発11:00-札幌新千歳着12:35
今回の旅は、Y氏によると「私へのお礼」だという。お礼をすべきは私のほうだ。どういうことかと言えば、雑誌終了後のおつきあいの話である。Y氏は退職後、編集プロダクションを立ち上げた。インターネットメディアを中心に、毎月大量のコラムを納品している。その中の鉄道分野でいくつか協力させていただいた。
私にとって、それは恩人に報いるためであり、報酬は期待していない。しかしY氏は気にかけてくれて、ご褒美旅行のカシオペアというわけだ。お礼にお礼を返された形になってしまったけれど「これからもよろしく」という意味であろうから、素直にいただくことにした。Y氏は文章もおもしろいけれど、トークもおもしろい。楽しい旅になりそうだ。
「カシオペアに乗るなら上りがオススメ。下りよりチケットを取りやすいし、ラウンジカーが最後部になるから、いつでも展望を楽しめます。下りの最後尾はスイート個室専用ですよ」と、アドバイスしたら、その通りに上りのチケットを取ってくれた。しかもメゾネットタイプのスイートだ。強運の持ち主である。そして、ずいぶんお金をかけてくださる。今回は行きの飛行機も、帰りのキップもすべてY氏が出してくれる。なにか下心があるのか、面倒な案件を押しつけられるかもしれない。いや、大きなプロジェクトがあって、これは採用テストの一つかもしれない。どれでもいい。恩人には逆らえない。命と尻の穴以外は何でも差し出す覚悟をした。
それから約10日後の9月17日、羽田空港第2ターミナルで10時に集合。Y氏と挨拶を交わして搭乗口へ向かう。荷物検査場が混んでいる。「こんなもんだろう」とY氏が言う。私はいつも始発便である。早く現地で行動したいからだ。早朝の羽田空港は空いている。しかし、昼間の時間帯が本来の羽田空港の姿。新幹線と航空機の対比で、航空機の所要時間を延ばす要素がここにある。こういう情景は知っておいたほうがいい。良い経験になった。
「ところで、食堂車のコースは予約がいるらしいな」
搭乗口のロビーでY氏が言う。
「はい、確か、出発の3日前までですね。みどりの窓口で予約券を買います」
「そうかあ。もう間に合わんかあ、それを早く言ってくれよ」
「大丈夫ですよ、ディナーコースの後にパブタイムがあって、食事メニューもありますから」
「そうかもしれないけど、コース料理の写真を撮りたいじゃないか」
それは気の毒なことをした。コース料理は私の苦手な魚介類の比率が多いし、私にとっては二度目のカシオペアだから、バブタイムメニューのほうに関心があった。だから料理の予約についてはアドバイスをしなかった。
レンタカー送迎バスで空港周辺を巡る。晴天
航空機は定刻に新千歳空港に到着した。ここからレンタカーを借りて札幌駅に向かい、カシオペアに乗る。宿泊なしの帰路夜行。お互いに毎日の締め切りを抱える身だから、これは納得ずくである。羽田でも千歳に着いてからも、Y氏は時折事務所に電話している。忙しそうだ。
新千歳空港にはレンタカーの事務所がない。私にとっては電車利用が常識であって、気づかなかった。空港敷地内の道路は全面的に駐車禁止で、クルマの受け渡しができないという。営業所は離れたところにあり、空港側に送迎バスの発着所がある。空港内のレンタカーカウンターは、その送迎バスと手続きを説明するための設備だった。
「なあ、タクシーに乗ろうや」
「え、無料の送迎バスが来ますよ、もったいないですよ」
「ええやんか、おれ、イラチやねんから」
「イラチ?」
「気が短いのっ」
「ああ……」
いまさら電車で行こうという提案もしにくい。もっとも、私自身も、いつもは電車だから、北海道のドライブもいいかもしれないな、と思う。どうせ費用はY氏もちである。おっと、お礼をいただくという謙虚さが薄れてきた。いけない。感謝の旅である。逆らわず、黙ってついて行こう、と思ったら送迎バスが来た。
政府専用機 ボーイング747-400型
「Yさん、あれ」
「なに」
「政府専用機がいますね」
新千歳空港は航空自衛隊との共用だ。管制官は航空自衛官。首相や要人が海外へ赴く時に使う政府専用機も航空自衛隊が運用しており、千歳基地の特別航空輸送隊第701飛行隊である。送迎バスは千歳空港の敷地をぐるりと回るコースで走り、飛行機好きには楽しい景色であった。
レンタカーは濃い青色のスズキスイフト。カーナビも搭載されていて、札幌までの道案内も安心だ。そういえばレンタカーを借りるとは久しぶりである。いつもと違う旅の流儀。ハンドルはY氏が握る。彼も北海道を走りたかったのかな、と思う。
昼飯はジンギスカンである。なるべく札幌駅へ向かうルートから逸れない場所でオススメの店を、とレンタカー屋さんの女性職員が「有名かどうかはわかりませんが、私たちが良く行く」という店を教えてもらった。
私たち専用機 スズキ スイフト
ところが行ってみると外観は東京郊外でも見られるファミリー向けの焼き肉店だ。テーブルの中央に鉄板が埋められている。平べったい鉄板である。メニューを見ると、普通の焼き肉店のようにメニューの片隅に、ジンギスカンと書いてある。
しまった、と思う。ジンギスカンと言うからには、山のように盛り上がった鍋でジューっと肉を焼き、周りの溝に肉汁が溜まっていくアレである。
(これ、僕らがイメージするジンギスカンと違いますね)
(これは違うだろ。俺たちが期待してるのは、雑誌で言えばジンギスカン特集。これじゃジンギスカンがコラム扱いだろ)
北海道は空が大きい、道も広い
ものすごく気まずい感じで、なんとなく会話もうわずりながら肉を焼き、食べた。旅というより、二人で地方のゲームメーカーへ出張し、ついでに腹を満たしたという雰囲気である。味は悪くなかったと思う。期待した雰囲気と違うというだけで、かなり残念である。
店は悪くない。私の選択ミスだ。このジンギスカンといい、カシオペアのディナーといい、いきなり失策が続く。Y氏がカシオペアに乗ろうと言い出した理由は、単に私への礼だけではないはずだ。それなら都内の飲食店でも済む話。きっと、私が何度か手伝った鉄道のコラムをきっかけに、列車の旅をしたくなったのだろう。
Y氏が抱く鉄道の旅のイメージが損なわれないか、心配になってきた。
野菜も欠かせない中年男たちの焼き肉ランチ。
-…つづく
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