第567回:気仙沼ホルモンと復興の宿 - 大船渡線BRT 気仙沼~鹿折唐桑 -
宮城県気仙沼市。宮城県の太平洋岸で最北の市である。人口はおよそ6万7千人。小さな市ではあるけれど、市名と同じ気仙沼駅周辺は中心地のはずであった。しかし夜の気仙沼駅周辺は暗い。駅とコンビニ風の売店が明るくて、なおさら駅前通りを暗く感じる。理屈抜きに言えば寂しい。まだ19時前だ。建物が多いけれど明かりは少ない。

気仙沼駅のアニメキャラクター
こどもたちを元気づけようと設置された
食事をしたいが、道路沿いの店は閉まっている。このあたりの人々は外食をしないのだろうか。いまだ外食どころではないのか。しかし、今日、気仙沼の宿はどこも満員だった。駅前にあるホテルも満室、徒歩10分程度のホテルも満室。クルマで10分程度のホテルも満室だった。それだけ人が集まっていながら、駅前の飲食店は商売にならない。
気仙沼駅は少し内陸にある。古い建物も多い。つまり、ここは津波の被害が少なかったところだろう。気仙沼は良港で栄えた街だから、中心地も港のそばだったはずだ。つまり、気仙沼でもっとも活力のある場所は津波にさらわれてしまった。駅前の夜の寂しさ、静けさは、復興途上の町の現実かもしれない。
駅前のホテルの2階が明るい。レストランがある。宿泊を断られたホテルだから悔しい気持ちもあるし、ホテルのレストランは節約旅の身分に合わない気もする。しかし他に選択肢はなさそうだった。玄関を入るとロビーがある。フロント氏が「宿泊でしょうか」という。食事だけだと応えて階段を上がり、レストランの扉を開けた。

夕食は気仙沼ホルモン
夕食時だけど、明るい店内が閉店間際のように閑散としていた。店員を呼び、座って良いかと確認してしまった。お品書きを見る。「漁師のまかない定食」「船長のおすすめ定食」「船頭のおすすめ定食」。魚介が苦手な私には選べない。単品メニューも「鰈の唐揚げ」「帆立の甘味噌焼き」など魚介ばかり。気仙沼を訪れる人々が喜びそうな品々だ。こんなとき、私は何をしに来たかと思う。
「気仙沼ホルモン」。これは肉メニューのはずだ。注文を取りに来た店員に、これは肉だよねと念を押した。ホルモン以外の肉メニューはないらしい。定食の定番、とんかつもない。気仙沼の人々は、ホルモンの周りの肉はどうするのだろう。ホルモンの語源は“放るもん”、意味は“捨てるところ”というけれど、気仙沼は肉を捨ててしまうのか。
申し訳ないが魚介が苦手と話すと、単品の気仙沼ホルモンを定食にしてくれた。気仙沼ホルモンは気仙沼の名物料理だという。豚肉モツを味噌ニンニクのタレで味付けている。これは飯に合う。携帯端末で調べてみたら、戦後、気仙沼漁港が遠洋漁港の基地となり、他の地域と交流が深まる頃が期限とされ、B級グルメが流行した2006年にブランド化したようだ。味が凡庸な気がするけれど、ホテルのレストランとして上品に仕上げているからだろう。モツ焼きはもっと野性を刺激する食い物だ。それなりの名物店にいけば、もっと美味いだろう。探求したくなる。
腹も満たし、落ち着いた。さて、宿へ行こう。今日の宿は市街地の外れの“ホテル望洋”である。ネットの地図サービスで計測したこところ、徒歩30分と出た。腹ごなしの散歩にはちょうど良いと言えそうだが、いささか疲れた。そして眠い。しかし駅前にタクシーはない。

ホテルは鹿折唐桑駅のほうが近い
路線バスは……、と、そこで気づいた。大船渡線BRTの鹿折唐桑停留所が近い。徒歩10分である。私は盛駅までの乗車券を持っているから、気仙沼から大船渡線BRTに乗り、鹿折唐桑駅で途中下車すればいい。気仙沼駅発21時09分の便がある。鉄道なら明るい時間に乗って車窓を眺めたいけれど、路線バスに対して、そこまでこだわるつもりはない。
食後にゆっくりお茶を飲み、気仙沼駅に戻ると売店が閉まっている。いよいよ気仙沼は闇に包まれそうであった。暗い駅前広場にBRTのバスが待機していた。運転士にきっぷを見せて乗車する。客は私を含めて数人であった。闇の街の気仙沼市役所前を通過。ここに停留所を作らなかった理由は、鉄道駅にこだわったか、地元のバス路線への配慮だろうか。鹿折唐桑停留所まで約8分。私だけ降りた。

明るいが付近に建物がない
県道の街路灯がまぶしいほど明るい。道路の両脇に黄色い工事用フェンスが立っていて、遠くまで続いている。遠くにプレハブの建物が見える。両側が工事中ということは、たぶん、復興造成地の真ん中に私は立っている。それ以外は闇の中だ。私は携帯端末で地図を呼び出した。ホテルは気仙沼駅へ戻る位置にある。
振り返れば道路以外は真っ暗だ。しばらく歩き、県道から外れると真の闇になった。こんな心細い思いは久しぶりだ。津波の日の夜、生きながらえた人々は、どんな思いでこの闇を過ごしたか。心細かったどころではない。空腹と寒さだ。そして、不安、失った人、もの。命は助かった。しかし、命しか残されなかったとも言える。闇の中、想像が大きくなっていく。私は歩いた。なにか歌でも口ずさもうかと思った。誰にも聞こえない。しかし、思いつかない。坂道を上りながら、今日の宿はどんなところかと思う。10分後には判明するクイズだ。

気仙沼方向は闇
一昨日のこと。インターネットで予約できるホテルはすべて満室。旅立ちの2日前だから仕方ない。Googleストリートビューで駅前の通りを眺めると、小さな旅館がいくつかある。まるで寅さんが泊まるような佇まいであった。こういう宿もたまにはいいなと、旅館名で検索して電話をかけてみた。どこも満室とのことであった。
最後に電話した宿は、駅から離れた海沿いであった。海の幸が自慢の観光ホテル。一人者の素泊まりは敬遠されるだろう。公式サイトがあって、予約は電話とメールのみ受け付け。現在は復興ホテルとして営業とある。工事関係者やボランティアの利用が多く、一部の部屋は被災者が住んでいるとも書いてある。なんだか場違いな客のような気もする。しかし、ここでだめなら一ノ関まで行くか、気仙沼駅で野宿だ。寒いだろうな。
ダメもとで電話してみた。しわがれた男性の声。空いているという。
「ご旅行ですか、お仕事ですか」
「旅行というか、取材というか……」
「実はいま、復興の工事関係者ばかりでビジネスホテル状態なんです。お食事も食堂で皆さんご一緒にという状況でして」
「あ、それは好都合です。私は偏食で魚が苦手なので、素泊まりでお願いします」
電話の主はほっとしたようだった。金額を聞く。公式サイトの表示料金より少し高い。おや、と思ったけれど、あれは平時の料金で、今は事情が違うのだ。私はよろしくと言って電話を切った。しかし、すぐに折り返し電話があって、料金を間違ったと言った。食事付きの料金だったそうだ。訂正し詫びられた。宿の主は良い人のようだ。

坂道からの眺め。海と漁船のようだ
街灯が見えた。丘の上は被害が少なかったのだろう。家が並ぶ。ホテルらしき看板がないと思ったら、復興の宿ホテル望洋は駐車場にセットバックされたところに建っていた。客室の明かりが少ない。ロビーもホテルにしては暗かった。感覚としては旅館なのだ。自動扉を手でこじ開けて入った。「こんばんは」と声を出す。男性が現れて受け付けてくれた。部屋の風呂は使えない。大浴場を使ってほしい、などと説明された。電話の主の声ではなかった。
部屋は和室だった。8畳ほど。これは思いがけなかった。布団が敷いてあり、テーブルには電気ポットと茶櫃。大きなガラスの灰皿。奧の窓際に椅子とテーブル。典型的な和式旅館であった。まったく、和室でふかふかの布団で寝るなんて、何年ぶりのことだろう。すぐにでも潜り込みたい。風呂など要らない。しかし蒸しタオルで身体は拭こう。私は電気ポットに水を入れてスイッチを入れた。

和室で落ち着く。布団がうれしい
2014年4月8日。長い1日が終わった。私は携帯端末を開いた。SNSの通知メッセージが多い。友人たちからのお祝いの言葉だ。ひとつずつ返信する。今日は私の誕生日であった。孤独である。けれど、寂しくはなかった。
-…つづく
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