第46回:人類最初の芸術、アルタミラへ(3)
更新日2003/09/18
先週は連載を開始して以来、はじめてお休みをいただいた。のらりスタッフの皆さんや読者さんからの温かいメールがカンタブリア上空の雨雲を追い払ってくれたのか、その週末の天気予報で、スペイン北部の海岸線についに晴れマークが並んだ。よぅっし。
鼻息も荒く、バス会社に電話を入れる。首尾よくその夜に出発する便が確保できた。それから大急ぎでカレーを6皿分作る。今夜と明日の昼にツレアイが食べる分と、明日の夜に帰宅してから自分も食べる分。人類最初の芸術も大切だが、明日の晩飯も同じくらい大事やけんね。あたしゃフリーライター主婦なのだ。

マドリードからアルタミラまで、直行のバスはない。インターネットで調べたところ、まずカンタブリア州の州都である港町サンタンデルまで行き、そこからアルタミラにいちばん近いサンティジャーナ・デル・マルという村まで行くバスに乗り換え、村から洞窟まで約2kmの距離を歩く、ということになるらしい。いつもなら現地のツーリスト・インフォメーションにも問い合わせるのだが、急な出発のためにその時間はなかった。
夜11時少し前、いざ出掛けむと玄関で靴を履いていたらツレアイが帰宅。「おぉ、行くんか。気つけてな。どこから出発?」「南バスターミナル」「え、北に行くんやろ? そやのに南ターミナルなん?」「うん……。アレ?」 そう言われると、なんか不安。念のために靴を脱ぎ、部屋に戻って南バスターミナルに電話。「あの、サンタンデル行きのバスですが、」「それならここじゃないですよ。アベニーダ・デ・アメリカ駅発です」 げー、あぶねー。前々号で「うっかりファミリー」を書いたけれど、同じくらいのボーンヘッドやらかすとこだった。たとえば上野発の夜行列車に乗ろうとして、品川へ行こうとしたくらいのボケかただ。
というわけで余裕ができたので、カレーを少々食べてから11時半にあらためて出発。ちなみに日本の市販のルウを使ったカレーはスペイン人にもたいてい大好評なのだが、辛いものが苦手な彼らはほとんどバーモントカレーの甘口しか受け付けない。『世界ウルルン滞在記』でスペインに来てカレーをふるまう予定のある方は、ぜひご注意を。
などととりとめのないことを考えるうち、地下鉄はアベニーダ・デ・アメリカ駅に到着。予約番号を伝えて、チケットを受け取る。出発ホームへ向かおうと大きな時刻表の前を横切っていると、「これ、かなぁ?」とかなんとか日本語が耳に飛び込んできた。振り返ると、日本人らしき若い男性の姿。スペインで言葉のわからない苦労を吐くほどしてきた私は、考える間もなく「日本の方ですか?」と声を掛けていた。
実はスペインのあちこちで、これまで何度もこういう場面に遭遇している。声を掛けて「助かりました」と喜ばれる場合もあるし、怪しいと思われてかムニャムニャ言いながら逃げられる場合もあるし、無視されたり明らかに迷惑そうな表情を向けられることも少なからずある。なのでまず「日本の方ですか?」と声を掛けておき、「もしなにかお困りならお手伝いしましょうか? あ、怪しい者じゃないです」と続けることにしている。なんともややこしいが、世の中がそれくらいややこしくなっているので仕方ない。
私にとってもうれしいことに、その20代前半の男性ふたりは快く申し出を受けてくれたので、彼らとともに翌日のバルセロナ行きの夜行バスを手配。先日イタリアから着き、バルセロナからは夜行でフランスのニースへ行くという。いいなぁ、青春だねぇ。思い出すとどうも葛山信吾似のような気がして仕方ないイケメン(っていうの?)好青年ふたりに別れを告げ、楽しい気分でバスに乗り込んだ。
マドリードからサンタンデルまでは片道約400km、東京からだとだいたい新潟あたりか。所要時間は約5時間半で、運賃は往復で53.80ユーロ(約7200円)。指定した便がスーパー・クラスの扱いになるため、通常よりも割高となっている。でも良い時間のは、これしかなかったんだよね。
ゆったりめに作られた革張りのシートに座り、旅の友コルセットを装着。あたしゃ腰痛持ちフリーライター主婦なのだ。定刻の0時30分にバスが走り出すとすぐ、添乗員のセニョリータがイヤホンを配りはじめた。それから、飲み物や雑誌のオーダーを取りに来る。ソフトドリンクや雑誌のサービスは無料で、お金を払えばアルコールや軽食もOK。これがスーパー・クラスのサービスだ。悪くない。ビデオの上映も始まる。でも、すぐ寝てしまった。

添乗員のセニョリータ・エドゥルネ22歳。
車内ではムチムチのノースリーブ姿。
その次は、11時半発。このターミナルで5時間半も待つのか……。いや、バカな。マドリードへ帰るバスは、サンタンデル発15時の便である。そんなにのんびりしていたら、帰りの便に乗り遅れる。途方に暮れて眺めたドアの外は、まだ真っ暗。初めて訪れる新潟のような北の港町サンタンデルで、唇をぎゅっと噛んだ。
いや、なんかきっと、他に方法があるだろう。バスの時刻表をノートに書き写してから、ターミナル内のキオスクに飛び込んだ。サンタンデルの地図を買いつつ、売り場のおばちゃんにアルタミラまでの行き方を訊ねる。と、FEVEという鉄道があり、これがアルタミラ近郊の町まで行くという。すぐ隣にあるという駅への行き方を教えてもらい、地図を片手に、見知らぬ街へと駆け出した。
しいんと静まり返った街を、緊張した視線を四方に飛ばしまくりながら、早足で歩き続ける。この時間、マドリードで出歩くことは絶対にない。いつ背後から首を締められてもおかしくないではないか。よしんばゴルゴ13がやってきても返り討ちにするくらいの気迫を発しつつ教えられた角を曲がると、暁闇の中に煌々と光が溢れる鉄道駅が現れた。夢中で走り込む。
出発まで約1時間。さて、どこに座ろうか。駅員詰め所からよく見えるところで、ベンチにもたれて寝ている男の人から遠いところを選んだ。構内には他に4人連れのおばちゃんたちがいて、さきほどの警備員と楽しそうに喋っている。よし、ここなら安全そう。
やっと警戒を解いて、買ったばかりの地図を拡げる。サンタンデルとアルタミラの位置関係を確認していると、「ねぇ、ねぇってば!」と呼びかける声がする。思わず目を上げると、さっきまで遠くのベンチで寝ていたはずの男が、私の隣に移ってきてこっちを見ているではないか。しぇー。なんかこれって、危なく、ない?