スペイン三大画家は誰か。そんなこと聞かれても(あまり聞かれないけど)困ってしまう。困ったときには長きに巻かれろ、で、美術の殿堂プラド美術館を見てみよう。なに、入る必要はない。正面玄関にベラスケスの像、同じく南門にムリージョ、北門にゴヤ。これをもって三大画家に決定。
というわけでゴヤはスペイン三大作家のひとりなのだが、私にとっては「そういえば名前、聞いたことあるような」だけの存在だった。やがてスペインに移住して2年くらい経ってから初めてプラド美術館へ行き、ってその後もう1回行っただけなのだけど、とにかく「ゴヤというのはまたえらい人間臭い絵を描いたひとなんやなぁ」と思うに至るようになった。そして、なんか辛そうな人生だなぁ、と。なんせ堀田善衛『ゴヤ』全4巻を読んでみようと書店のサイトを見てもずっと1巻だけ品切れで入手不可能で、2巻から読むガッツがいまのところない私は、その程度の薄っぺらい感想しか持てにゃいの。

北門、ゴヤ像。後ろはリッツホテル
さて、ゴヤの人生をざっとたどってみよう。
1746年にアラゴン地方(この連載はテルエルがもっとも近い。)に生まれる。「火縄くすぶる(1789年の受験勉強用語呂合わせ)」フランス革命より半世紀くらい前の話。やがてイタリア留学後、ロココ調の華やかなタッチで王立タペストリー工場用の原画を手がける仕事に就く。大出世!
1797年前後、モデルが誰かについて今日まであらゆる噂が絶えない『裸のマハ』『着衣のマハ』を製作。1799年には主席宮廷画家に就任。あらもうなんてサクセス・ストーリーなのん、と思いきや、これに先立ち、すでに病気で聴覚を完全に失っている。
更なる転機は1808年、ナポレオン軍のスペイン侵攻。というのも40代でフランス革命の報に接したゴヤは、その思想に共感し、大いなる期待を抱いていたのだという。ところが結局隣国スペインにやってきたのは、理想に燃える啓蒙思想ではなく、武器を手にしたナポレオン軍だったのだ。
5月2日、彼らに対してマドリード市民は各々武器を手に立ち上がった。しかし、多勢に無勢。翌5月3日にはもう、反乱市民の虐殺が行われた。ゴヤは、その光景を実際に見たと言われている。それからどうしたか? ……新しいスペインの王としてナポレオンが押し付けてきたホセ1世、つまりはナポレオンの兄貴に、彼はそのまま仕えたのだった。うーん、生活とかもあるだろうしなぁ。でも、どんな気分だったのだろう? まぁ朗らかではなかっただろうなぁ。胸がシクシクするね。生きてくってのは、なかなかしんどいやね。
スペイン市民は、ナポレオン軍には屈しなかった。そのとき採った手法こそ、スペイン語で「小さな戦争」を意味する"guerrilla"(ゲリラ)。組織化されたナポレオン軍に対し、小規模な戦いで応戦したスペイン人。このスペイン独立戦争は6年に及んだが、結局ナポレオンはスペインを支配できないまま1814年に引き上げた。ゴヤはこの年の国民議会で、絵画でスペイン人の戦勝を伝える旨を誓ったとされる。
こうして1814年、ゴヤの大作『1808年5月2日』と『1808年5月3日』ができた。前者は反乱の、後者は虐殺の光景を描く。印象的なのは5月3日。稚拙にさえ思える筆致で、いくつもの銃口を向けられて処刑される直前の市民が描き出されている。いや市民というか、そこらのおっちゃんの顔なのだよ。なんか眉濃いし。巨大なカンバスの前に立ったとき、私はイテテテテ、と胸を押さえてしまった。
1819年、ゴヤは公的生活を引退して、マドリード郊外に移る。実はそのとき、壁に『黒い絵』シリーズを描いていたのだという。『我が子を喰らうサトゥルヌス(ギリシャ神話のクロノス)』など、『八ツ墓村』くらいに怖い。いや、あまり怖そうで横溝正史ものは見たことないのだけど。『我が子を喰らうサトゥルヌス』は、プラド美術館のページで見ることができる。
1823年、フランスに出国。5年後、ボルドーで没する。なのに遺体は、マドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂にある。どうやって遺体を運搬したか、調べてみたけどわからなかった。まぁとにかく、礼拝堂内部のフレスコ画はゴヤ自身が生前に手がけていたもので、傑作とされるらしい。ゴヤは今、自分の絵に見守られて眠っているのだ。
サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ礼拝堂
Ermita de San Antonio de la Florida
Glorieta de la Florida,5
91-542-0722
この礼拝堂では、毎年サン・アントニオの祝日に、ささやかなお祭りが行われる。ひとつは敬虔なクリスチャンのためのもの、もうひとつは不敬虔なひとのためのもの。前者は、ご神体(というのかな?)のご開帳と、キリストの肉であるパンの配布。私はもちろんこれ、じゃなくて、「不敬虔なひとのための」方のお祭りに参加してきた。
もとはお針子さんたちの守り神だったというが、どういうわけか現在は、恋占いに借り出されている。以下、その方法を解説すると。
・恋占いをしたいひとは、それぞれ13本の針を持って集合。
・順番がきたら、針を全部大きな鉢に入れる。

・やおらその針の山にぎゅううううと掌を押し付ける。
・我慢できなくなったら、そーっと手を上げて裏返してみる。そのとき掌にくっついてきた針の数が、今年1年の間に訪れる恋の数。
お祭りの衣装で着飾った老若男女、ならぬ、老老女女で恋占いは長蛇の列。という私も、自分も含めて既婚者3人で列に並んだのだが。まずは、友だちがやってみることに。恐々と針の山に手を乗せてみたものの「ダメだった~、ひとつもついてなかった」と言い終わった、か否かの間に、鉢の脇に立っていた係りのおばちゃんが素早く動いた。
「どれ」 おばちゃんは有無を言わせず彼女の華奢な手首をつかむと、無理やりもう一度針の山に手を置かせた。「もっと押し付けるのよ、ほらもっと強く!」と言いながら、恐ろしいことに、その逞しい手を上から重ねてぎゅうぎゅうと押し付けるスーパー・サポート。恐怖と痛みに半泣きの彼女。今年2回の恋ができるという結果を得るために、彼女は白い掌に赤い斑点を大量に作る羽目となってしまった。もちろん私は、スーパー・サポートおばちゃんの死角でさっと済ませた。結果は……ナイショ。オットのいる身ですので。

恋に年齢は関係ないのよ!
こういう馬鹿馬鹿しいことで楽しめるって、たぶん、素晴らしい。帰り途、ゴヤのフレスコ画を鑑賞し、遺体が収められているという棺に手を合わせてきた。ゴヤさん、こんな日常、あなたにもありましたか? 他人のことだし偉大な芸術家のことはわからないけど、恋とかバカ話とか、なんかそういう思い出があったらなんとか生きていくの頑張っていけるような気がしたもので。って余計なお世話で失礼。安らかにお休みください。また今度、プラドに絵を見に行きます、たぶん。