牛に追われているわけでもないのに、体温くらいの気温があるパンプローナを、バスターミナルへとひた走る。汗とともに噴き出るのは、絶望感。この国で置き忘れたものが出てくる可能性といったら、モー娘。のオーディションにパスする確率よりも低いくらいだ。これまでバスの車内にだけでもマフラーとサングラスとを置き忘れたのだが、当然のように出て来ず仕舞いだし。
行きは迷って迷って1時間かかった道を、10分ほどで到着。窓口で「忘れ物、届けてありませんか?」と叫ぶ。「どういうの?」「透明のポーチで、中には魚と海の絵が描かれた日本風のタオルが入ってたんですが」「あぁ」 案内の女性は笑うと、奥からポーチを出してきた。私は卒倒しそうなくらい喜んで受け取ると、さっそく「長崎おくんち(祭り)・魚の町特製手拭い」を取り出して汗を拭いた。あぁ、この吸収力。おくんちの思い出。そうそう、これこれこれ。
帰宅後、聞いた誰もが「この国で紛失物が出てくるなんて奇跡だ」と口を揃えた。パンプローナは極めて良いところだし、私もモー娘。に入る夢を諦めちゃいかん、ということなのだろう。手拭いを手にした私は俄然元気になって、町外れの闘牛囲い場へと向かった。
サン・フェルミン祭りの名物エンシエロ(牛追い)のコースを、今日はひとりでたどってみる。

まずは、町外れの闘牛囲い場。毎日6頭の闘牛が、ここで待機している。朝8時、週末なら3500人にもなるという参加者が固唾を飲むなかで、羊飼いならぬ牛飼いが景気良く牛を追い出すと、狂騒のエンシエロの始まりだ。
牛は時速24kmくらいで走る。囲い場を出ると、わりと勾配のあるサント・ドミンゴ通りの登り坂が280m続く。実際に走ってみると、かなりしんどい。でも牛より速く走らないと、角にひっかけられて大怪我してしまう。昼下がりで静まり帰った坂をひとり、必死の形相で走っていると、通りに面したベランダに出て涼んでいた子どもが、驚いた様子でこちらを指差したのが見えた。なるほど、ベランダは絶好の観戦場所だ。そういえば、あちこちのベランダに「サン・フェルミンの時期、貸し出します」の案内が貼ってある。
坂を登りきると、役場前広場に出る。

ごく小さな広場、でも赤と白の民族衣装を着た市民がぎゅうぎゅうに集まってお祝いやデモやなんかをする光景をよくテレビで見る広場を斜めに突っ切り、コースはメルカドレス通りに移る。

通りの入り口には、1840年から続くという店が。カーブを曲がり損ねた牛が激突したこともあるのだろうか? 店は昼休み中のため、訊ねることはできなかった。ここからはゆるやかな下り坂。二重カーブがあるため、意外と危険な場所になるらしい。
100m進んだところで、コースは直角に曲がってエスタフェタ通りへ。

この通りは旧市街のメイン・ストリートで、下は石畳。つるつるに光っていて、雨でも降ろうものなら簡単に足を滑らせそうだ。あるいは、牛に追われてパニックになっていたら。なるほどね、それでみんな、あんなにスチャスチャ転ぶわけだ。たいして広くない道の両側にはびっしりと建物が並んでいて、ベランダにいるのでもない限り、逃げ場はない。
ここを300m駆け抜けると、建物が途切れる。その100m先はもう、ゴールの闘牛場だ。だがなんでもないようなこの地点こそが、もっとも危険な場所のひとつなのだ。1975年には、ここで多くの若者が先導牛の下敷きとなり、角に引っ掛けられたひとりの若者が死亡する事態となった。それで、翌年からここでは柵に破れ穴(通常は「猫の通り抜け穴」として使われる単語で説明されていた)を作り、参加者が退避しやすいようにしているという。

ついにゴール、闘牛場入り口。ここの柵に沿って牛と参加者は闘牛場の中へと雪崩れ込み、牛を真ん中に集めるようにして、ひとはぐるりと円を描く柵の後ろ、観客席へと退避していく。やがて花火が打ち上げられると、エンシエロが終わった合図だ。
この入り口の柵は通常は取り払われているのだが、祭りの1ヶ月前ということで、すでに設置してあった。といっても設置というか……、こんなかんじなのだけどね。いったい何年間、このやり方のまんまで続けているのだろう……。

以上が、全長846mのエンシエロ(牛追い)コースガイドである。「ジカタビ」読者のみなさんのお役に立てればうれしいのだけれど。
繰り返すと、参加者希望者は、7月8日から14日までのエンシエロ期間中、朝7時30分までに現地集合。参加費は無料。服装は、白の上下に、赤いネッカチーフをひとつ首に、ひとつ腰に結わえたスタイルがおすすめ。リュックやカメラは持たず、14世紀から続く伝統と、これを守ってきたパンプローナのひとたちへの敬意を忘れずに!