以前住んでいたアパートのお隣さんが、何度も生まれた町の話をしてくれた。そこは町全体が分厚い城壁に囲まれていて、夜には門に鍵をかけてしまうのだという。へぇ! まるで鎧を着込んだ町、だわ。町の名前は、アビラ。マドリードから北西に115kmの場所にあるという。いつか行ってみるね、と約束した。思えば、それから2年も経っていた。
8月最初の土曜の夜。「ちゅうわけで、明日アビラ行ってくるわ。ジカタビで」と声を掛けると、それまで知人に借りた『剣客商売』(池波正太郎)を熱心に読んでいたツレアイが急に顔を上げた。「アビラ? 俺も行こかなぁ」 アラ、めづらし。仕事と家庭の両立を図る妻としては、というよりも後述の下心もあって、「ウン。」と可愛く頷き(いつもなら「ウン」に続けて「コ」と言うのだが)、それじゃ明日は早起きよ、と約束してベッドに寝転がった。午前1時。
「あーづーいー」。真っ暗なベッドルームにツレアイの声が、呪いの言葉のように低く這う。目を開けてみれば午前3時。実は私も、ちっとも寝付けないでいた。というのもこのところのマドリード、やたらと暑いのだ。たとえばその日も、夕方に外出先で見かけたのがこの表示。

日向なので高めに表示されるとはいえ、48度なんて、風呂でもちょっと入れないくらいの温度じゃないか。ただでさえ幼少時から「あんたはまた、すぐのぼせるとやけん」と怒られ続けてきたお調子者の私がいくら自重したって、簡単にのぼせあがってしまう気温である。ゾウのように水を浴び、カバのように水を飲み、ライオンのように日陰に寝転んで暑さをやり過ごすしかない。ここはアフリカのサファリパークか? いや、熱風はアフリカのサハラ砂漠を越えてきたものだというから、まんざら間違いでもないのだけどさ。
ともかくツレアイが呪いの言葉を発した午前3時、室内の温度計は33度を指していた。窓をもっと開けようと壁に手をあてれば、レンガの壁すら人肌の温もりを持っている始末。「暑かけん、寄らんでー!」「お前こそ、もっと端の方に行けやー」「あぁ足、くっつく、どかして、はよどかしてー!」「うーるせー。あれ、俺のアイスノンは? お前取ったやろ?」「チッ」 ごく醜い争いを繰り返しながら、明け方までまんじりともできずに過ごした。
とはいえ夜が怖くて眠れないわけじゃないのだし、夜が明けたら気温はさらに上昇するわけで、結局ふたりしてかなりの寝不足。それでも短く浅い睡眠を重ねて、なんとか起き上がったら12時近くになっていた。フラフラしながら出掛ける準備をして、ようやく1時に家を出る。いつも路駐のためハトのフンがあちらこちらに白い模様を描く車に乗り込むと、車内の気温計には、38度という表示が。送風口から噴き出す熱風に、つい今日も『情熱★熱風)セレナーデ』(近藤真彦)を口ずさみつつ、いざ出発。

マドリードからアビラまでは、バスで片道6.26ユーロ(約870円)、往復10.02ユーロ(約1400円)、所要時間は1時間半。ただし我が家からだと、バスが出発する南バスターミナルまでですでに1時間以上かかる。たとえば成増から秩父方面へ行くのに、いったん品川あたりまで出なければならないと想像してみてほしい。あるいは電車で上石神井から吉祥寺行くのにいったん東へ向かって高田馬場とか新宿を経由しなきゃいけないとか、スペインから日本へ行くのに直行便がないからなぜかもっと遠いロンドンで乗り換えとか。あぁもう、書いてるだけで悶々しちゃう。とにかく、すごいロスなのである。
ところが今日は、品川あたりまで南下する必要がない。これこそ、昨夜抱いた下心であったのだ。市内北部の我が家からアビラ方面への道路が近いこともあり、車はあっという間に州境を超えてカスティージャ・イ・レオン州に入る。マドリードから北西へ、ガリシア州ア・コルーニャまで続く、国道6号線。ディズニー『白雪姫』でモデルにされた美しい城と、仔豚の丸焼きで有名なセゴビアの近くで、アビラ行き高速道路に乗り換え。
先月まで5年間、ツレアイは毎月出張でこの道を通っていた。道を熟知しているせいか道中の瞬間最高速度は時速175kmだった、ような気もせんでもないが、制限速度は時速120kmなのでおそらくなにかの見間違いだろう。もちろん取り締まりの警察もいるのでご注意。新設されたアビラ行き高速道路は、どこまでも広がる麦わら色の景色の中を、真っ直ぐに伸びる。山の頂に風力発電用の白い風車が何基もくるくると羽根をまわしているのを横目に、快適に走ることしばし。なんと2時前には、アビラの町に入っていた。家からの所要時間は1時間弱、高速料金は6.55ユーロ(約900円)なり。わーい、城壁、城壁。
ところが、アビラの町に入ったという表示が出てしばらくしても、そこらの新興住宅地みたいな味気ない光景ばかりが続く。人口約5万のアビラは、ツレアイ曰くもっとも人口の少ないながらも県庁所在地であり(後に調べたら52市のうち48位。最下位はやはりテルエルだった)、城壁に囲まれた旧市街の外にも生活の場として新市街が広がっているのだ。道路標識の"◎centro
ciudad"(セントロ・シウダー、「町の中心」)だけを目印に進み、ロータリーを何度かまわると、ようやく目の前に城壁が現れた。

きゃーでっかーい。さっそく城壁の外に車を停め、最寄りの門に向かって歩き出した。というのも旧市街の中というのは『隘路で坂道★一方通行)セレナーデ』(無理なこじつけでした)と相場が決まっているので、車を乗り入れると面倒なのだ。門を潜りつつ振り返ると、路上に停められた車が、炎天下にギラリと光っている。それにしても、この熱でも溶けないハトのフンの成分って、一体なんなのだろう?
つづく…