第192回:携帯電話の文化とその弊害
いつも思うのですが、携帯電話で話すとき、人はまるで演説でもするようにどうしてあんなに大声で自分のプライベートのことを人前でガナリ立てることができるのでしょうか。車のハンドルを握ると性格がコロッと変わってしまう人がいますが、普段つつましい静かな人が、一旦携帯電話で話す段になると、周りのことを気にせずに大声で叫ぶように話すのはどうしたことでしょう。
アメリカ人は声の大きな人、開けっぴろげな性格の人をよしとして育ってきましたから、飛行機が目的地に着き、機内での携帯電話使用許可が出たときには見もの、聞きものです。100%近くの乗客が一斉に携帯電話を取り出し、「今、着いたところだ」「迎えはどこどこで」「晩御飯前には家に着く」などとやりだすのは、あきれると言うより、一種壮観なくらいです。まるで長い禁酒から解けたアル中患者が、大好きなお酒の入ったグラスを口に持っていくように、携帯電話にしがみつくのです。
私は授業中には携帯電話は禁止しています。当然ですよね。ですが、最近、テキストメッセージという強敵が現われ、これは他の生徒さんや授業に迷惑をかけないし、一人籠もってピコピコやっているので、禁止しようがありません。本人の授業の集中を著しく妨げているはずですが、それは本人の問題です。授業の内容をパソコンに打ち込み、ノートを取る学生も幾人かいます。
私は専門の言語学の授業で参考にするリファランスにインターネット・ウェブをよく使うので、パソコンを授業に持ち込み、それらのページをその場で見るメリットはあります。彼らはそういった操作を実に素早くやってのけます。ブラウジング(検索して表示すること)の能力は非常に高く、参考資料を集めるのはとても上手です。
もう一つ、彼らは一度に沢山のことをこなすことも得意です。授業を聞きながらテキストメッセージを送り、同時にパソコンでブラウジングすることなどお茶の子さいさいです。きっと運転しながらの携帯電話、テキストメッセージを打ったりで鍛えられているのでしょう。この町では、運転しながらの携帯電話は禁止されていませんが、統計によれば、酔っ払い運転以上に危険だそうです。
ところが、一つのことに長い時間集中したり、論文なり、テキストが何を言おうとしているのかを何度も繰り返し読み、理解するのは苦手です。そして、自分が何を言いたいのか理論立てて説明するのも駄目です。従って、レポートを赤ペンで修正しても、同じ間違いを何度も繰り返し、私の方が間違っていたのかなと思うほどです。
知識をインターネットから集める能力は高くても、いざレポートや論文にまとめる段になると、悲惨なことになります。自分で考える力がないので、インターネットやテキスト、他の人の論文をそのまま自分の意見のように書いてしまうのです。これはプレジャリズム(plagiarism;一種の盗作)と言います。どのような学会でも論文、学説の盗用とみなされ、命取りになる行為です。
学生にもうるさいほど、必ず出典、参考を明記するように言っているのですが、彼らは自分が見つけたサイトからの意見、データは自分のものと思っているのでしょうか、全くなくなりません。あたかも自分の意見、理論のように書いてしまうのです。
生徒に言わせれば、私も、僕もこの論文と同じ意見だったのだから、自分の意見として書いてもよいはずだということになりますが、百歩譲って、出典を明らかにした上で、この論に私も、僕も同じ意見だ、その理由は……と書くように言っていますが、インターネットで発見したモノは自分のモノだという、携帯世代の考え方からなかなか抜け出ることができないようです。
携帯電話は学問へのアプローチも変えてしまいましたが、人格の形成にまで影響を及ぼしてきているようです。
第193回:山の冬、停電の夜と静けさの音
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